がんと闘いあらためて感じた命の大切さ

 45歳になった'04年9月。85キロあった体重は70キロを割っていた。撮影所で激ヤセを指摘されると「役づくりです」とスタッフをごまかし、「オレは健康なんだ」と自分をだまして仕事を続けた。

 しかし、体調は日増しに悪化。12月には食欲、性欲、睡眠欲がすべて消えた。そして、大量の血尿。もう自分はだませない。病院で検査を受けたのはクリスマスの日。

「街中が輝いているのに、自分だけが幸せから取り残されたようで、帰宅してから『まだ死にたくない!』って、家具を蹴飛ばし、皿をたたき割って、1人で号泣しました」

 年明けに大学病院でがんを告知された。左の腎臓に巣くったがんは20×13センチ。「普通はこんなに大きくなる前に死ぬ」と、医師も驚くほど病状は進行していた。だが、「がんとわかってから小西は明るく振る舞うようになった」と小西さんの事務所社長は言う。自暴自棄になりかけた小西さんにダメ出しをしたのは、ここでも欽ちゃんの教えだった。

「人生は50対50、幸せも不幸も同じように訪れる。悪いこともきちんと受け止めなければいけないよという萩本さんの教えが、僕の心を支えてくれたんです」

 2月16日。大手術は無事に成功。左脇腹にはVの字に50センチも切り開いた手術痕。

「先生が一生消えない勝利のVサインを刻んでくれたんやで!」と、ベッドではしゃぐ小西さん。その裏で小西さんの事務所社長は医師から「転移の可能性が高い、5月までもたないかもしれない」と聞かされていた。

 ところが、小西さんは驚異的な回復を果たす。術後3日目にはリハビリを開始し、9日目には退院。目標にしていたのは、手術をして助かることではなかった。

「早く元気になって、病気で苦しむ人たちに希望を与えたかったんです。そのために『徹子の部屋』に出ることを目標にして、番組で体験を黒柳さんに話す自分を毎日イメージしていました。それこそ、野球部の枕投げと一緒です(笑)」

 5月の検査で転移は認められず。末期がんを克服したことで「命の大切さ」をテーマにした講演依頼が増えた。その活動を知った黒柳さんからお呼びがかかる。7月、小西さんは徹子の部屋に出演。余命ゼロの先に目標は叶った。

 元気なコニタンが帰ってきた。アクション系の仕事も大丈夫。'07年には『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』で熱演。マスク姿の怪人ではない。地球を守るヒュウガ隊長役。正義のヒーローは子どもたちに夢を与えるのが使命。児童施設への慰問に全国を駆けめぐった。そして悲しい現実も目の当たりにした。

「命の授業」を受けた子どもたちから、たくさんの感想文が届いている
「命の授業」を受けた子どもたちから、たくさんの感想文が届いている

「小児病棟にはやせ細ってパジャマの色でしか男女の区別がつかない子どもたちがたくさんいるんですよ。笑って、喜んでくれた子が、次に訪問したときにはもういない……。そのたびに僕は控室でのたうちまわって泣きました」

 儚(はかな)いからこそ大切にしなければならない命。小中高校で行う「命の授業」と題した小西さんの講義は年間100回にも及んだ。

 しかし、'09年4月21日。悲報に胸をえぐられる。清水由貴子さんが自殺。欽ちゃんファミリーを代表して取材に応じたのは小西さんだった。

「萩本さんから小西の気持ちさえしっかりしていれば、思ったことを素直に話せばいいと言われたんです」

 翌日──。

《オレはユッコを絶対に許さない、冥福も祈らない!》

 小西さんのコメントは批判の集中砲火を浴びた。マスコミは容赦なく「薄情者」扱い。だが、ファミリーで苦楽を共にした風見さんは言う。

「前日の夜、コニタンから電話があったんですよ、『コメントするの、オレでいいのか』って。字面だけだとキツく受け取られますけれども、生きられないかもしれない中で、生きることにもがいたコニタンが、悲しみのどん底で悩んで悩んで悩んだ末に選んだ、正直な言葉だったと思います」

 どんな理由があろうと自ら命を絶つことを小西さんは肯定できなかった。その気持ちが強いがゆえに無念さは強い言葉となって吐き出された。

 でも、ユッコさんへの思いは、何も変わっていない。

「毎年、命日にお墓参りに行って“ユッコとの約束をオレはしっかり守るで、見とってや”って、話しかけてますよ」

 目をつむれば、今もユッコさんの声が聞こえてくる。

「私たちの仕事は、お客様に夢と希望を与えること──」

 命の授業に続き、小西さんは「いのちのうた」プロジェクトを立ち上げ、自殺防止に取り組むとともに、自らが歌うCDの売り上げを小児がんの支援団体に寄付した。

 '11年、東日本大震災が起こると、復興支援チャリティーイベント『被災地に届け!いのちのうた』を主催。その活動がニュースになると、次男から連絡が来た。

「世界でたった1人の父親だから、会いたくなりました」

 小西さんには離婚歴がある。2人の息子とは13年ぶりの再会。中1だった次男は自衛官になり、東北の被災地で救助活動に尽力していた。中3だった長男も沖縄の福祉施設で介助の仕事に就いていた。

「2人とも命を守る現場で頑張っていたんです。もう、うれしくて、“立派になったな”って大泣きしたら、“オヤジの泣き虫は変わらんな”って笑われました」

 息子たちとは今も親密な交流が続いている。小西さんにとって、生きることにもがいた末に訪れた幸せだった。

「幸せも不幸も同じように訪れるという萩本さんの言葉には先があるんです。何度も言われましたよ、幸運をつかむには努力という台の上に乗っていないとダメなんだ、と」

高校の校長になった小西さんは、生徒たちと積極的に交流を 撮影/齋藤周造
高校の校長になった小西さんは、生徒たちと積極的に交流を 撮影/齋藤周造

 人生の師である欽ちゃんは73歳で大学を受験し、学び直しを始めた。還暦を迎えた風見さんも、今年1月から語学留学でアメリカに渡る。

「萩本さんも僕も学生になった。コニタンは校長先生になっていちばん出世だね(笑)。ウシのごとく生徒たちをグイグイ引っ張っていくことを期待していますよ!」(風見さん)

 小西校長なら、先頭に立って大人たちもグイグイ引っ張ってくれるに違いない。 

「命さえあれば必ずチャンスは来るんです。だから大人が夢を持ちましょうよ、そして子どもに夢を語ってください。何歳になっても夢は叶えられるという希望を子どもたちに与えられるのは、僕たち大人なんやから──

〈取材・文/伴田 薫〉

はんだ・かおる ●ノンフィクションライター。人物、プロジェクトを中心に取材・執筆。『炎を見ろ 赤き城の伝説』が中3国語教科書(光村図書・平成18~23年度)に掲載。著書に『下町ボブスレー 世界へ、終わりなき挑戦』(NHK出版)。