それにしてもお茶の間から姿を消してどうしていたのだろうか?
「世間で半田健人見ないよね、消えたよねってなったのはいつぐらいのことなんでしょうか? 主観ではわかりえないというか、僕としては時計は止まってないわけですよ。事務所を辞めるということになったのはざっくり2011年くらいとしましょうか。それでも関西テレビの『よ~いドン!』はそのあとも出演していましたし、SBSラジオの『林哲司&半田健人の昭和音楽堂』は今も続いていて15、6年になります」
ただ、テレビの露出が一気に減ったのは事実だ。フリーであることに加えて当時は訴訟中という状況。
「やっぱり事務所移籍報道みたいなのがあると、みなさん“巻き込まれたくない”と思うのか、どこに行ってもそう。よく“干された”って表現を使うけど、例えば芸能界のドン”みたいな人がいたとして“あいつはこういう不義理をしたから使わないように”みたいなことをテレビ局やメディアに伝えるなんていうケースとはぜんぜん違って、単純に僕がフリーになったから、どこにも所属してないタレントは使いにくいという状況だったんだと思います」
売れた、成功した人間が幸せとは限らない
かくして、週12~13本あったレギュラーの仕事が急になくなり、一気に環境が変わったが、幸いにして生活に困ることはなかった。
「ラジオの仕事も続いているし、関西テレビも事実上フリーになっても個人契約を交わしてくれました。手を差し伸べてくれる人はいたんですけど、露出のペースはかなり落ちました。これは負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、売れてる人間、成功してる人間が幸せと思われてますけど、僕はいまはそう思ってなくて。人生単位での成功、芸能人としての成功はテレビに出ることかもしれないけれども、人生として振り返った時に自由と時間、この2つを手に入れたのは狙ってできることではなかった」
忙しすぎる時間の中では気付けなかったことがあったと話す。
「やっぱり殺伐とするんですね。そんなつもりはなくても、今思えば一個一個の仕事が散漫になっていました。朝から晩まで1日3本、別の番組に出演。それが毎日続くと、仕事をいただいてるっていう感覚がなくなっていく。乱暴な言い方をすると“休みくれよ。また、仕事入れやがって”ですよ。スタジオでディレクターさん、プロデューサーさんが“よろしくお願いします”って来てくれても、“よろしくお願いします”とは言いますけど、内心としては“もうしんどい”のほうが先に立っちゃってるっていう状況が正直ありました。
ところが今は“1本1本丁寧にやらせていただきたい”。そういう心情に自然となれますし、『チコちゃん~』なんかも“やるんだったら徹底的にやります。こんなんどうですか”なんて提案して。こういう姿勢も、時間的な余裕がもたらしてくれたんだなと思ってます」