マネージャーに“現場で倒れなさい。でないとギャラが出ない”
誰が面白いか熾烈な戦いが繰り広げられる世界。若い女性がひとり活躍しているのは、目障りであったのかもしれない。
「男の子たちはライバルが多すぎてビクビクしてたところもあったと思います。たけしさんがすごすぎて、同じことをやってもそれ以上にはなれないし。他のメンバーより面白いことをやらないと、次の出番はなくなる。いつも戦ってる感じ。男の芸人さんが、私の前で弱気になって涙を見せることもありました。
ただ、サッカーのレギュラーに選ばれる戦いみたいな感じで、競争はあってもみんな仲良かったんです。何より面白いメンバーが集まってるから、楽屋で過ごすときも、食事をするときもずーっとずーっと面白い。大変なこともいっぱいあったけど、毎日が刺激的で、本当に楽しかった。青春だったと思います」
『ひょうきん』で活躍したこともあり、人気はさらに上昇。仕事は一気に増えていった。
「いくつも掛け持ちで仕事をして、忙しかったですね。具合が悪くて休みたいと言っても、マネージャーに“現場で倒れなさい。でないとギャラが出ないから”って、昭和なこと言われて。そうやって育ったから、仕事根性は植えつけられましたね。具合が悪いまま生放送をやって、コマーシャルの間に吐いてたってこともありました」
そんなハードスケジュールの中でも、ちゃんと遊んだ。
「デビュー直後は実家に住んで、月々3万円ずつお金を入れてたんですけど、事務所近くの四谷に小さな部屋を借りて住むようになって。近くのジャズバーや文壇バーによく通うようになったんです。そこには、タモリさんやたけしさん、漫画家の赤塚不二夫先生、さいとう・たかを先生、俳優の松田優作さん、原田芳雄さんなども出入りされていました。
ママたちがうまくつないでくれて、私はいろんな人に可愛がってもらっていたんですよ。酔っぱらっちゃって、タモリさんにおんぶされて帰ったこともあります(笑)。そこでたくさんの人と交流して、世界を広げることができた。後のネタ作りにも役に立ちましたし。それって、私がちゃんとふらふら外に出かけていったおかげだと思うんですよ。
ただ、私が店に行き始めた10年後ぐらいに、宮沢りえちゃんが店に出入りするようになってからは、私のまわりの人たちみんなだーってそっちに寄って行っちゃった(笑)。私はそれまでりえちゃんのポジションで、若い女性扱いしてもらってたんですね」
充実した20代を過ごしていたが、時には先輩芸人の理不尽な八つ当たりに、涙したこともあったという。
「大阪の番組にゲストで呼ばれて行ったときに、司会の横山やすしさんにいきなり怒鳴られたことがあったんです。本番前にメイク室で『東京から来やがって。おまえなんかぶっ殺したる。帰れ、帰れ、東京に』って。別に私が何かをやらかしたわけじゃないのに。私は驚いて泣いちゃった。
やすしさんと一緒に司会だった桂三枝(現・桂文枝)さんが取りなしに来てくださったんですけど、私の泣き顔を見て、『もうお帰り』と言ってくれて。やすしさんも荒れたままだったから、そのまま東京に帰ってきてしまいました。
『山田邦子、根性ないなぁ』って言われましたけど。相方のきよしさんが選挙に出たときで、漫才ができなくなって、やすしさんは寂しくて荒れちゃったというのはわかってましたから。その番組はそれっきりになりましたが、この世界をやめようとは思いませんでしたね」
新しいお笑いのブームをつくった『オレたちひょうきん族』は、1989年10月14日に番組が終了となった。その4日後の18日に『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』が放送開始。女性ピン芸人としては初めて名前を冠したバラエティー番組で、新しい道を切り拓くことになった─。
構成・文/伊藤愛子●いとう・あいこ 人物取材を専門としてきたライター。お笑い関係の執筆も多く、生で見たライブは1000を超える。著書は『ダウンタウンの理由。』など