山城新伍さんが面会を許した数少ない芸能人
晩年は老人ホームに入居し、かつての仲間の面会も拒絶していたという山城さん。そんななか、山城さんが面会を許した数少ない芸能人の1人が川上であった。
「それまでは月に1~2回くらい、『何してるの?』『ごはん食べよう』という連絡があったんですけど、突然、ぷっつりと連絡が取れなくなって。『施設に入っている』という噂だけはあったので、私もいろいろ伝手をたどっていったんです。
そしてあるとき、どこかの女性誌が……もしかしたら、週刊女性かな? そこに山城さんの状態が良くないという記事が載っていたので、それを見て編集部まで電話して、山城さんがいる施設の場所を聞いたんです。面会に行ったときは、見ても山城さんとはわからない状態でした。もう、ちっちゃくなっていたので。でも、それでも『麻衣ちゃん』って呼んでくれて、思い出話もしてくださったので、その日はすごくいい状態だったんだと思います」
面会の約10日後、山城さんは亡くなった。川上にとって、山城さんは“芸能界のお父さん”のような存在だった。
子どもが欲しくて養子縁組を考えたことも
30歳になったころ、川上は中学の同級生だった男性と結婚した。そして、その4年後の2000年に離婚している。
「離婚の理由は……原因をひとつだけ挙げるのはすごく難しいんですけど、子どもがいなかったから離婚したということではないです。だけど、いたら離婚してないんじゃないかなっていう気持ちはありました。ふたりきりだと、どうしてもふたりの問題に集中しちゃうので。
結婚したのが30歳だったから、子どもを早めに欲しいなとは思っていたんですよね。一時期は『3か月後のことはわからないから』って、舞台の仕事を一切入れないようにしてたんですけど、妊娠する兆候が2~3年なかったので、それを言っててもしょうがないなって。
ただ、不妊治療をやるつもりは全然なく、自然に任せようということは決めていました。私が仕事を頑張りすぎたのか、私の食生活なんかがよくなかったのか(苦笑)」
川上が離婚したのは、約20年前の話である。現在は皆の知識と理解が深まり、子どもを授からない理由として男性不妊の可能性もうかがい知る社会だ。しかし、当時は女性にばかり責任が押しつけられがちだった。要するに、子どもを授からない負い目をひとりで背負っていたということはなかったのだろうか?
「どうなんですかねえ……? ただ、実は養子縁組を考えたこともあったんです。だけど詳しく調べたら、当時は夫婦のどちらかが仕事をやめなきゃいけないとか厳しい条件が結構あって、『これは無理だな』ということになりました」