「落ちるところまで落ちてしまった」
さんざんな進路指導になってしまったが、卒業後の進路に関しては、実は憧れていた学校があった。近所にあった文武両道の進学校である。
「その高校は内申点を重視していました。ところが自分は学校には行っていないから出席日数はほとんどないし、出席していないから成績はオール1。“この高校には行けないんだ……”という現実を突きつけられた」
進路指導の先生からは、1枚のリストを渡された。
「その中にあったのが、夜間の定時制の高校でした」
「落ちるところまで落ちてしまった」
先生からすすめられた夜間定時制高校に、藤井さんはいい印象は持てなかった。
「高校進学についてはぼんやりとしたイメージはありました。でも自分が夜間の定時制に行くとは思ってもいなかった。それで“自分はこういうところに行かなくてはいけないのか……”と」
当時の藤井さんが熱望していたのは、“ごく普通の高校生になること”。藤井さんにとって“普通の高校生”とは、朝、起きたら学校に行く存在。そうでない高校に行かざるをえない状況は、戸惑うばかりだったのだ。
とはいえ普通でありたいと願うなら、定時制だとしても中学卒業者のほぼ全員が進学する高校に行くのが“普通”だろう。
先生から渡されたリストの中から選んだのは、埼玉県立戸田翔陽高校。単位制で、朝に学ぶ1部と昼の2部、夜の3部の3部制の定時制高校だ。藤井さんはその3部を志望する。
普通になりたいのに全日制のように学べる昼間部でなく夜間の3部を選んだのは、「1部・2部は倍率が1倍を超えていたから。全日制のように学べるので人気があるから、そこを落ちたら行くところがありません。それで“3部しか選択肢がない”と、夜間の3部を受験したんです」
体育以外はオール5
たとえ落ちても定時制高校はほかにもある。それでもここにこだわったのは、制服があったからだった。
「僕は普通に戻りたいと思っていました。普通に戻りたいのに制服もなく、授業が終わって夜の21時に歩いていたら、見た目は街をほっつき歩いているのと変わらない」
藤井さんにとって制服とは、高校生であることを自覚できる貴重なアイテムだったのだ。藤井さんは戸田翔陽高校3部に合格する。
だが、そんな当時の戸田翔陽高校3部といえば、授業中の私語は当たり前。板書中の教師に消しゴムが投げられることも。そんな中で藤井さんは、体育以外は最優秀という素晴らしい成績を記録する。
このころ、戸田翔陽の校長を務め、以来、15年の付き合いという管野吉雄先生(70)が、当時の印象をこう語る。
「高校入学には、生徒について記した内申書というものを作るんですが、それを見ると中学の成績はオール1。それを体育以外はオール5にするんですから“力のある子だな”と思いましたね」
そしてさらにこう続ける。
「藤井くん、『校長、ここで弁当食べてもいいですか?』とか言って、よく校長室に遊びに来てくれたんです。
友達付き合いはとてもいいんですが、勉強したい藤井くんとは話が合わない。話を聞いてくれるのは、校長とか先生とか大人の人。同学年より、大人を友達として求めていたような気がします」
当の本人は、高校生活をこんなふうにとらえていた。
「小・中学校だったらどんなに学校を休んでも進学できます。でも高校だと赤点取ったら留年だし、ついには退学ということになりかねない。私にとって高校は、“失敗が許されない場所”だったんです。
久々の登校で、入学当初はお腹が痛くなったり熱が出たりがありましたが、それでも勉強を続けられたのは、そうしたプレッシャーがあったからでした」
プレッシャーに突き動かされてであったとしても、みごと立ち直った元不登校を、先生たちも応援した。就職しようと思っていた藤井さんに、大学進学をすすめたのだ。
すすめられた藤井さんはといえば複雑だった。
「いずれ社会に出るにせよ、自分にはまだその準備ができていない。となれば、進学しかなかった」
国公立大学受験を前提にして、高校2年で全国模試を受けた。だがこの模試で、藤井さんは大きな衝撃を受ける。
「見たこともないところから出題されているんです。それで初めてわかった。世の中は夜間高校の勉強の進度になんて頓着しない。全日制高校が基準になっていて、定時制のカリキュラムでは、同じ土俵に上がれてさえいないんだ─と」