そうなる理由は、マルクスの「資本」の概念から容易に理解できます。資本とは際限のない価値増殖運動にほかなりません。価値増殖すること以外に、資本には何の目的も関心もありません。ゆえに資本は、人間の幸福やあるべき道徳に対して完全に無関心です。私は、資本のこの性格を「資本の他者性」と名づけました(『マルクス 生を呑み込む資本主義』講談社現代新書、2023年)。だから、「ブラック企業」という言葉はおそらく不適切なのです。企業は利潤の最大化、すなわち価値増殖を至上の目的としている限り、そもそも「ブラック」に決まっているのです。
それでも、こうした企業の反社会的性格を抑制するために、経営者たちはさまざまに企業倫理を考え出してきました。それは、利潤の追求だけでなく、社会貢献や労働者の雇用を守るといった目標を追求しなければならないという考え方でした。しかし、この3年余り、新自由主義化が進むなかで、「株主主権」とか「ストックホルダー資本主義」といった概念が強調され、受け入れられるようになりました。
株主=資本家ですから、要するにこれは、企業のサイコパス的・反社会的性格を全面開花させよ、というそれ自体きわめて反社会的な主張です。この主張によれば、企業はブラックであればあるほど、ただひたすらに価値増殖を追求しているので、「正しい」ということになります。
ブラック企業「潜入取材」のすすめ
いよいよ凄まじい世の中になりました。だからあえて言いたい。若者は、ブラック企業で働くべきだと。無論、これはブラック企業でも頑張って働いて根性を鍛えるべきだとか、何とか内部で改革を試みて企業体質を変えるべきだ、などと言いたいのではありません。そんなことを志すと身体か心、あるいはその両方が壊れます。
あくまで、いつでも辞められる身分で、文化人類学者のように観察するつもりでブラック企業に身を置いてみれば、資本主義の何たるかを最も明瞭に理解できるはずです。いくら理不尽な目に遭おうが、「いつでも辞められる」ならば、何も怖くはありません。ハラスメントや法令違反の命令については、しっかり証拠を残すために、仕事中は常時録音機を作動させておくとよいでしょう。
そして、もう一つの重要なメリットとして挙げられるのは、最初から「ブラック企業でいいや」と思っていれば、大学生が就職活動というつまらないゲームをしなくて済むことです。ブラック企業は大量退職を見越して大量採用しますから、就職するのは容易なはずです。私が早稲田大学に在籍していた当時、就活したくない学生がいまは亡き某大手消費者金融に電話を掛けて「採ってくれませんか」と言ったら、「なに? 早稲田? とりあえず採っておけ!」と話すのが受話器の向こうで聞こえた、という伝説がありました。
他方、いわゆるエリート予備軍を気取る「意識高い」若者は、「いい会社」に就職しようと願い、そうした会社のビジネスは「真っ当な」ものだと信じます。何という愚かしさでしょうか。資本主義社会には、不祥事をもみ消せないビッグモーターともみ消せるビッグモーターがあるだけなのに。そして、後者のビッグモーターは我が手を汚さないで済ませるために、「ブラック」な部分を前者にアウトソーシングすることができるだけなのに。
もちろん「あえてブラック企業で働く」を実行するには、「いつでも辞める」ことができる余裕がなければならないでしょう。ですが、余裕のある者が先頭に立って正確な社会認識を持つこと、これが世の中を変えるためのはじめの一歩を刻むことになるのです。
白井 聡(しらい さとし)Satoshi Shirai 政治学者、京都精華大学教員
1977年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。3.11を基点に日本現代史を論じた『永続敗戦論 戦後日本の核心』(太田出版、2013年)により、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞などを受賞。その他の著書に『国体論 菊と星条旗』(集英社新書、2018年)、『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社、2020年)などがある。