「介護が大変だからこそ、学校は楽しかった」
タイムスケジュールをまとめてみよう。6時に起床し、小学校に行って4~5時ごろ帰宅すると、すぐ祖父の捜索と身体をきれいにしてから夕食の介助、夜10時にはパチンコ屋から帰宅の祖母を出迎え、11時就寝。たまに夜中に徘徊する「祖父捜索パート2」が加わる。
これで小学生らしい生活ができていたのかと聞くと、意外にもちゃんと学校には毎日、通っていたという。
「家では気が抜けず、睡眠時間がとれないのが大変でしたね。給食を食べたかったので、学校は無欠席でしたよ。むしろ介護が大変だからこそ、学校は楽しかったです」
介護生活は認知症の進んだ祖父が徐々に動けなくなり、風間さんが中学生のときに枯れていくように亡くなることで終焉を迎えた。
「祖父の世話をしたことは美化されるような類いではなく、僕にとってはあくまでも生活の一部。亡くなったときは、『介護から解放されてホッとした』とも思いませんでした。そのころ住んでいた地域ではご近所さんが気にかけ、僕たち家族をさりげなく助けてくれていたのはありがたかったですね。僕が道を踏み外さなかったのは、それも大きかったと思います」
近所の人は、食べ物をコソッとくれたり、祖父が汚物をまき散らしていることも見て見ぬふりをし、ホースを貸してくれるなど、温かい目で見守ってくれた。風間さんの自尊心を大切にするために、知らぬふりをして支えてくれた。
それでも、友人には自身が置かれた家庭環境を知られたくなかったと話す。
「友達を家に連れてきたことは、もちろんありません。誰も家を知らなかったんじゃないかな。学校からの帰りも、家から離れたところで友達と別れていました」
祖父が裸で歩いているところに遭遇しても、友人には「自分の祖父だ」とは言えなかった。
「子どもながらに『恥ずかしい』という思いはありましたね。知っている人には言いづらいので、僕は学校の先生にも伝えていませんでした」
風間さんはヤングケアラーという言葉を聞いたとき、自分のような子どもがほかにもいたことには驚いたという。
多くのヤングケアラーは世間を知らない分、「この状況が普通だ」と疑問に思わない。そこに「家族のことを知られるのは恥ずかしい」「自分が家族の面倒を見るのは当たり前」という思いが重なって、子どもだけで背負い込んでしまうのだと風間さんは分析している。困っている状況そのものが表面化しにくい。
「子どもが話しにくい状況は、今の時代も変わらないと思うので、子どもたちが少しでも話しやすい環境になっていけばいいと願っています。だからもし、そのような子どもに大人が気づいたら、根気よく時間をかけて声をかけてあげてください。話せる状況をつくってあげることこそが、一番大切だと思います」
(取材・文/オフィス三銃士)