元警視庁幹部によると、桐島容疑者は1954年1月9日に広島県深安郡神辺町に生まれた。曾祖父、祖父は村議会議員、町議会議員をそれぞれ務めるなど、生家は地元では名家として知られていた。
尾道市内の高校から1972年4月に明治学院大学に進学した桐島容疑者は、過激派組織「東アジア反日武装戦線」の思想に共鳴し、同戦線の「さそり」グループのメンバーとして活動する。
大学入学後は映画研究会、同和研究会に所属するも、すぐに退部。その後、東京・山谷の日雇労働者らの「越年資金闘争」に参加。東京都や台東区らを相手取り、闘争に明け暮れていく。
警察関係者によると、この闘争の場で、ほかの「さそり」メンバーと知り合い意気投合したとみられるという。
桐島容疑者の手配容疑は、1975年4月に中央区内の韓国産業経済研究所の入り口付近に爆発物を仕掛け発動させた、爆発物取締罰則違反の罪だ。東アジア反日武装戦線の他のグループの共犯者がいまだ海外に逃亡しているため、桐島容疑者の罪は時効停止となっている。
「1970年代は、過激派による壮絶な爆弾テロの時代だった」と振り返るのは、70代の警視庁OBだ。
戦後最大規模の爆弾テロ事件
警視庁OBが「社会を不安のどん底に陥れた」と強く記憶しているのが、1974年8月に発生した三菱重工ビル爆破事件だ。
桐島容疑者が所属していた東アジア反日武装戦線「さそり」のメンバー、それに「大地の牙」「狼」メンバーらが、手製の爆発物を東京丸の内にあった三菱重工ビルの通用口近くのフラワーポットに置き、時限爆発させた。この事件で8人が死亡し、300人以上が重軽傷を負った、
過激派による戦後最大規模の爆弾テロ事件だった。
この事件当時、桐島容疑者は、「狼」グループの爆弾テロを超える爆弾テロを起こさないと「さそり」の存在理由がないと考え、1974年12月、ある建設会社を標的にした爆弾事件をメンバーらと実行する。
しかし、この事件は派手な火柱や爆発音を出したものの、けが人もなく、報道もベタ記事扱いがほとんどで、なかには「悪質ないたずら」との報道もあった。
ただ、「この建設会社への爆破事件は失敗に終わったものの、東アジア反日武装戦線の他のグループ『大地の牙』や『狼』から認められ、桐島容疑者らの『さそり』グループが爆弾闘争に本格参戦するきっかけとなった」(勝丸さん)という。
その後、韓国産業経済研究所爆破事件に関与したとして、指名手配された桐島容疑者は行方をくらます。警察当局は、失踪の直前まで都内の大衆割烹店でアルバイトをしていたことを把握。失踪3日前の1975年5月17日には、渋谷区内の銀行で現金を引き出していたことが確認されている。
そして同年5月31日に「岡山で女と一緒にいる」との親族への電話を最後に、警察も足取りをつかめなくなる。