一生頭が上がらない高田先生との出会い

 運と縁。

「それしかないです。何の実力もない男が芸能界で40年も生きてこられたのは、運と縁があったから」

 山田はそう謙遜し、こう続ける。

「山田洋次監督が『寅さん』に僕を起用して絞ってくれて、石井ふく子さんが『渡る世間は鬼ばかり』のレギュラーに声をかけてくださって全国に顔を売ってくれた。(放送作家でタレントの)永六輔さんが僕と2人会をやって、芸人としての幅を広げてくれた。どうです? 恐ろしいくらいの運と縁でしょう!」

 そんな山田が「特別な存在です」と挙げるのが「恩人筆頭、高田文夫先生です」。
『かたり』の誕生にも大きな影響を及ぼした高田だが、実は、山田の東京進出にも一枚かんでいる。

 大阪生まれ、大阪育ちの山田は、ライブハウスで歌を歌っていたところを松竹芸能に見いだされ、23歳で芸能界デビューを飾った。同じライブハウスには無名時代の河島英五さんや憂歌団も出演し、のちに歌で成功を収めることになる。山田も同じ道を目指していたが、売れる、と見込まれたのは歌ではなく、しゃべり。その見込みは的確で、松竹芸能は山田を関西の人気者に育て上げた。

 '89年、29歳のとき、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』(フジテレビ系)のサブ司会に抜擢され、週末は上京する生活が始まった。高田との出会いはその少し前、27歳のころ。

「大阪で、掛布雅之、高田文夫、中井美穂と僕が出演するトークショーがありました。それが初対面ですね」と山田が記憶をひもとく。

「そのとき、『おまえ面白いじゃねえか、東京に来たら遊びにこいよ』と言ってもらった。ある日、雪で新幹線が止まって上岡さんが上京できずに、番組が飛んだことがありました。その日、高田先生がやっていた『高田“笑”学校』に、雪の中歩いて行ったたら、『よく来たな』と。そこからですよ」

 34歳のとき、松竹芸能の社長に「おまえ、東京行って、1人でやったらいいよ。役者もやったらいい」と後押しされ、役者担当のマネージャーと共に送り出された。そのときはまだ、大阪と東京を往復する暮らしを山田は思い描いていた。

「高田先生に連絡したら、『東京に住め。飯が食えなかったら食わせてやる。若いころの(ビート)たけしさんも、俺の家でご飯食ってたんだよ』って言ってくださって、車に家財道具を積み込んで、高速道路を走って夫婦と乳飲み子の娘の3人で上京しました」

 生活拠点を東京に構えることで、山田の中で中途半端な気持ちが消えた。「江戸の笑いは、上方の笑いと違うから俺が教えてやる」と、高田に目をかけてもらえたことが強みになった。

「話しっぷりも勢いがあって面白かったけど、何よりも“汚れ”じゃないところがよかった。芸人にはそれが大事だから」と言う高田は山田の身元引受人になり、江戸前の芸を叩き込むことになる。

 立川流家元・立川談志師匠の還暦祝いのパーティーで『架空競馬実況中継』を披露させたところ、家元にすっかり気に入られ、『談志ひとり会』にゲスト出演することになった。

「飯食い行こう」と高田に誘われて、東京・六本木の寿司店に行ったら、店の個室にいたのは、ビートたけしとたけし軍団。「山田が東京で頑張るから頼むよ、とたけしさんを紹介してくれたんです」と山田は、本当に自分を引き受けてくれた高田には、一生頭が上がらない。