楽しい介護を探し奮闘

 山田は施設の人に介護の質問をぶつけたり、介護している人の集まりにも参加し意見交換し、楽しい介護を探し出そうと奮闘努力した。その結果、たどり着いたのは「介護される人は介護する人を選ぶ」ということ。介護前は「おかあちゃん」と呼んでいたが、介護中は「早苗さん」と呼びかけた。数秒に一度「雅人だよ」と呼びかけ記憶を刺激し続けたが、早苗さんは絶妙な間で「うるさい!」。笑いの間も改めて学んだという。

「認知症ですぐ忘れちゃうけど、心は赤ちゃんなんです。子どもと同じ。夜、徘徊させないために、どうやって疲れさせて眠らせたらいいのか、作戦を練るわけです。よく映画館に行きました。手をつないで、おむつを持って電車に乗って。映画館で2時間。その間、僕が眠れるんです。よくトム・クルーズのアクション映画を見ました。セリフがなくても楽しめるでしょう。映画館を出るとき『よく走っているな』と感心していました。トムは偉大ですよ!」

 それから志村けんさんも!と山田は続ける。

「BSで志村けんさんのコントの再放送をやっていたんです。それに笑うんです。伏線があって、それを回収する笑いじゃなくて、その場で笑わせるのが志村さんの笑い。認知症患者に伏線は通じないんです。改めてすごいなと思いました」

 別れのときは毎週水曜日。午前7時半にごはんを食べて、午前9時にデイサービスに送り出してから、山田は東京に戻る。

 8年間の介護について山田は「何の悔いもない。涙もない。やり切った」と満足そうな笑顔を見せる。それまで家事全般は妻・美恵さんに任せっきりだったが、

「洗濯も全部自分でできるようになりました。結婚してから足を運んだことがなかったスーパーにも行って、レタスはいくらか、という値段も気になるようになった。施設の人に『介護は最後の子育て』と言われましたが、まさにそんな感じでした。幸せな8年でした。僕にも母にも」

 母を見送り、山田の大阪滞在時間は減った。今もまだ、大阪の芸人のイメージで見られることが多いが、東京暮らしはすでに32年。芸能生活40周年のほとんどが、東京を拠点とした活動だ。

 俳優もやった。タレントもやった。『かたり』も生み出した山田は「いつ死んでもいいと思っています。1回1回の舞台があれば、それがうれしい」と充実感を明かす。妻の美恵さんも「見送る準備はできています。ハハハ」と明るい。「これだけ好きなことをして、みんなに応援していただいて、山田雅人という人生を楽しんでいると思うので」

 とはいえ、自らがこしらえた話芸『かたり』に関する欲だけはチラリと覗かせる。

「今、『横田慎太郎物語』(夭折した阪神タイガースの選手)を作り直しています。掛布雅之さんに取材もできたので、その情報を加えて、新しい物語にしています。母の介護に関しても、早いうちに『山田早苗物語』として完成させて、親を介護している人たちに、介護の楽しさを伝えたいですね」

 3月26日には、大阪・サンケイホールブリーゼで『山田雅人かたりの世界 開幕戦を前に伝統の一戦 阪神巨人戦を語ります』を開催する。

「僕の語り『天覧試合』とか『江川対掛布物語』に、ゲストは漫才師のオール阪神・巨人師匠です。名勝負の語りと漫才で楽しんでいただけます」

 とアピールした後、ニコッと笑顔でこう付け加えた。

「60代の自分が楽しみです。70歳になったときに『かたり』がどう変貌しているのか。寧久さん(=筆者)も長生きして、見てくださいね」

<取材・文/渡邉寧久>

わたなべ・ねいきゅう 演芸評論家兼エンタメライター。『夕刊フジ』、『東京新聞』等にコラム連載中。文化庁芸術選奨、『浅草芸能大賞』選考委員等歴任。『江戸まち たいとう芸楽祭(名誉顧問ビートたけし)』実行委員長。