男女平等宣言がなされた戦後の昭和22年、嘉子は直談判に出た。
「三淵先生は男女平等宣言がなされた今なら女子にも裁判官のチャンスがあるかもしれないと、司法省に出向いて、募集はなかったけれど裁判官採用願を提出しました。のちの最高裁判所長官で、当時の人事課長だった石田和外が、彼女を追い返さなかったことに助けられました」(佐賀さん、以下同)
『虎に翼』のモデルは家庭裁判所の育ての母
嘉子は同省で民法改正や家庭裁判所設立に関わったあと、念願の裁判官になった。そして昭和47年に初の女性裁判所長となり、退官するまで家庭裁判所で非行などをした5000人以上の少年少女たちに向き合った。嘉子を知る人で、彼女を「家庭裁判所の育ての母」と言う人もいる。
女性法律家として多大な功績を残した嘉子には、こんな肝っ玉エピソードがある。
35歳ごろ、歓迎会で酔って動けなくなった新人の男性裁判官をかついで、庁舎を出て日比谷公園を抜け、日比谷交差点まで1人で運んだ。
「私がその話を聞いたときは男女平等の精神からと受け取りましたが、今考えると、酔って動けない状態を先輩に見られると彼の将来に悪い影響を及ぼすかもしれないと考えて、1人で助けたのではないでしょうか。三淵先生は優しい人だったのだと思います」
嘉子が相当の力持ちだったことにも驚くが、気遣いのある人だったことは確かだ。
任官した横浜家庭裁判所で薄汚れた調停室の壁を真っ白に塗り替えて絵をかけ、昼休みの廊下に静かな音楽を流したりもしたという。家庭裁判所は離婚したい夫婦や非行少年などが集まる場所。彼らの気持ちが少しでも和むようにという配慮だったのだろう。
また、昭和の時代は現在よりも男女差別が根強く、それは法曹界も同じだった。
「『女性裁判官は歓迎しない』と発言した当時の最高裁人事局長に要望書を提出、本人と直接対面して抗議しました。さらにその数年後、司法研修所事務局長と教官が『男が命をかける司法界に女が進出するのは許せない』と宴席で発言。女性修習生からこの話を聞いた三淵先生は『もはや放置できない』と激怒し、日弁連と衆議院の法務委員会にまで真相究明を申し入れました」
嘉子は退官後も要職を歴任。労働省の男女平等問題専門家会議では座長を務め、現在の男女雇用機会均等法の礎を築いた。
嘉子は41歳で最高裁調査官の三淵乾太郎と再婚。乾太郎には前妻との間に4人の子がいて、嘉子のほうは一人息子の芳武がいた。
芳武によると、乾太郎が嘉子にべったりで、長女はそれに反発していたようだ。あるとき、嘉子が長女と電話で言い争いをし、嘉子は興奮して筋の通らないことを言い始めたので、芳武が怒ってやめさせたという。家庭では意外と独りよがりな面を見せていたようだ。
「三淵先生は息子の芳武やその学友と麻雀をすることがありましたが、自分に勝った息子に激怒して『親不孝もの!』と本気で怒鳴ったそうです。夫の連れ子は三淵先生のことを『猛女だった』と言っているので、先生は緊張を強いられている外とは違い、家では安心して自分をさらけ出したのではないでしょうか」
これは再婚前の話だが、小学生の芳武がレインコートを紛失してしまったときのこと。どこに忘れてきたかわからない息子に対して「どこに忘れたの、言いなさい!」とすごい剣幕で怒鳴り、忘れた場所を本当に知らない芳武は許してもらえないので仕方なく適当な場所を答えたところ、別の場所から見つかったという。
すると今度は「うそつき」となじり、その理不尽さを芳武は大人になっても忘れられない思い出として語っていたそうだ。家族の前では、かなり気性の激しい女性だったのだ。
法曹界の女性トップランナーと肝っ玉母さんを、まだ20代の伊藤沙莉がどう演じるのか、今から楽しみだ。
取材・文/田村未知(さくら編集工房)
佐賀千惠美さん 弁護士。著書に『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』など。近刊に『三淵嘉子の生涯〜人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)。