映画の世界の虜になり、作る喜びを知る
進学校である新潟県立新潟高校に合格した春休み。森は中学の同級生と初めて入った名画座で『イージー・ライダー』『いちご白書』の2本立てを見て衝撃を受ける。
「若者2人がコカインの密売で儲けた大金を手にして、ハーレーダビッドソンに乗って放浪の旅に出る『イージー・ライダー』。学園紛争に引き裂かれていく恋を描いた『いちご白書』。アメリカン・ニューシネマを代表する映画を2回ずつ見て、腰が抜けるほど驚いたことを覚えています」
'60年代後半から'70年代中盤にかけてベトナム戦争や公民権運動に揺れるアメリカでは、社会や政治に対する反体制的なメッセージを掲げるアメリカン・ニューシネマのムーブメントが巻き起こり、森もたちまち虜になった。
そんな森を見て、「映画に出ないか」と誘ったのが同級生で、現在、新潟市内の中島医院の病院長を務める長谷川晴彦さん(67)である。
「秋の学園祭に向けて、仲間で8ミリの長編映画を作りたい。そう考えていた矢先、クラスは違うけれど、ロン毛で萩原健一や松田優作のような風貌で異彩を放っていた森を見てピンときました」
そのときの作品が『あやつり人形のデザートスプーン』。90分に及ぶ大作である。
「この映画は、未来からタイムスリップしてきた女子高生の美しさに目が眩んだ男子高生が何人もアタック。無理難題を言われた末にフラれ、最後にヒーローと結ばれる。いってみれば現代版のかぐや姫です」(長谷川さん)
しかしこの作品への出演を、森はいったん断っている。
「僕が演じたのは“佐渡島まで泳いだら付き合ってあげる”と言われる役。“こんなバカみたいな役はできない”と言ったところ、“当て書きだからやってくれ”と頼まれ、渋々、日本海を泳ぎました。今思うとやっぱりバカですね。
でもこの作品が日本映像記録フェスティバルの長編部門で特別賞を受賞。映画作りは楽しいものだと、この作品で認識を新たにしました」
映画作りの魅力に目覚めた森は、立教大学法学部に入学すると、当時“立教ヌーヴェルヴァーグ”と呼ばれた映画サークル『立教SPP』に所属。そこには、後にカンヌ国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭で名を馳せる黒沢清をはじめ、新進気鋭のクリエーターたちが集まっていた。
「毎回脚本を持ち寄り、議論の末、選ばれた作品の脚本を書いたメンバーが監督もできる。僕と黒沢が同票となり、僕の脚本『目が覚めたら僕は戦場にいた』を監督したこともありました。しかし後に、黒沢が撮った『しがらみ学園』がぴあフィルムフェスティバルに入選。その作品に僕が主演していたことから、徐々に俳優としてのオファーが増えるようになりました」
“才能”も“運”もない。絶望の果て─
森はこのとき、『立教SPP』と並行して新劇の「劇団青俳」養成所にも所属。大学4年を迎えても、就職活動をする気にならず、両親に「しばらくアルバイトで生活する」と宣言して驚かせた。
「父は許してくれましたが、母は“なんで、なんで”と言って頭を抱えていました。そんな母の心配が的中したのか“研究生になれる”と思っていた『劇団青俳』は倒産してしまったんです。
仕方なくアルバイトで食いつなぎ、黒沢はじめ旧知の監督の映画に出演。他にも学校演劇や大衆演劇の世話になったこともありました。
そのころの食生活はインスタントラーメン1日1杯。このままじゃビタミン不足になると思い、アパートの周りに生えているハコベを摘んで一緒に食べていました」
そんな森に大きなチャンスが訪れる。後に大御所監督になる林海象が資金をかき集め、デビュー作『夢みるように眠りたい』を撮ることになり、森は主役に選ばれたのである。
「ところがクランクインの直前、当時アパートで飼っていた猫にひっかかれた傷から骨膜炎を発症。1か月入院している間に映画はクランクイン。この作品が大きな注目を浴び、僕の代役に選ばれた佐野史郎は、その後TBSの金曜ドラマで“冬彦さん”として大ブレイク。演技の才能はないかもしれないと、うすうす気がついていましたが、“運”もないとわかり絶望的な気持ちになりました」
しかもその時、一緒に住み始めた彼女の妊娠がわかる。人生最大のピンチを迎えた森達也、このとき28歳。生まれてくる子どものためにも、稼がねばなるまい。
そう決意して俳優への道をキッパリ諦め、背広とネクタイを買って求人誌を手に職探しを始めた。