目次
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ー マンションの名物だった“夫婦会議”
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ー 行きつけの寿司店の暖簾をデザイン
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ー “ねじねじ”ではない真っすぐな生き方

 突然の訃報に驚きが広がった。5月16日に中尾彬さんが心不全で逝去。81歳だった。

「最近ではバラエティー番組での活躍が目立っていましたね。ストールを巻いて下ろす“ねじねじ”がトレードマークでした。

 1962年に日活ニューフェイスとしてデビュー。色気のある二枚目俳優として、現代劇から時代劇まで幅広い役をこなしました。美術大学出身でアートに造詣が深く、料理も得意。器用で好奇心旺盛な趣味人でした」(スポーツ紙記者、以下同)

マンションの名物だった“夫婦会議”

 若いころは何人もの女優と浮名を流し、プレイボーイとして知られていた。

「1970年に一度目の結婚をして子どもが生まれますが、中尾さんは家庭に落ち着かず別居。離婚調停中に池波志乃さんと出会います。再婚すると人が変わったように愛妻家に。芸能界きってのおしどり夫婦と呼ばれるようになりました。

 ただ、多額の慰謝料と養育費を払ったせいで借金を抱えた中尾さんを、しっかり者の志乃さんが支えましたから、頭が上がらない。感謝の気持ちが強かったでしょうね

 池波の父は金原亭馬生で、古今亭志ん生が祖父。

結婚すると、東京の谷中にある一軒家で暮らすように。2005年にタワーマンションに引っ越しますが、やはり同じ下町エリアでした。伝統と文化を味わえる場所から離れたくなかったのでしょう。沖縄にもマンションを持っていて、2つの家を行き来する生活でした」

 2012年からは夫婦で終活を始め、断捨離の一環で沖縄のマンションは売却。下町のタワマンで、ゆったりとした暮らしを楽しんでいたようだ。

夫婦そろって外食がお好きでした。夕方になると、マンションのロビーで夕ご飯はどこに食べに行くか、お店を決める“夫婦会議”が名物になっていました。

 中尾さんは自分からは行きたい店を言わない。志乃さんにいくつかの行きたい店を言わせたうえで、そのときの自分の気分に合った店に向かう。きっと志乃さんが行きたくない店に無理やり付き合わせるのが嫌だったのでしょう」(マンションの住人)

 コロナ禍では、家で妻の“志乃メニュー”を堪能していたが、最近は夫婦であちこちに出かけるようになっていた。

「いつも気さくな人でした。マンションのコンシェルジュは、中尾さんのプライベートを守るために“あんまり気軽に話しかけないで”と言っていたのですが、エレベーターで中尾さんと一緒になると、向こうから“今日は風が強いですねー”なんて声をかけてくれました」(別の住人、以下同)