母・敏子さんと食事を楽しむ長野さん (画像提供、長野さん)
母・敏子さんと食事を楽しむ長野さん (画像提供、長野さん)
【写真】初々しい! ミスDJを務めていた女子大生時代

 そして勉強会を立ち上げ、取材や執筆をしていくうちに新しい道を切り開いていった。しかし、同時期に私生活でも困難が立ちはだかっていた。

テレビでできなかったことに挑戦している今が心から楽しい

 降板と前後して身内の不幸が続き、'19年に義父、'20年に義母、'21年に実母を見送った。母子家庭で育った長野さんにとって、母の敏子さんは特に大きな存在だった。

7歳の時に父が病気で亡くなったというのもあって、母が死んだら生きていけないと思っていました。シングルマザーで苦労した母を見て、学生時代は楽をさせてあげたいという思いが強かった

 就職、結婚で自立すると親子の距離は離れたが、晩年の敏子さんは長野さん夫婦と同じマンションの別棟で一人暮らしをしていた。

母はとにかく人に頼りたくない性格で、92歳で亡くなる直前まで毎日のように“絶対に病院で死にたくない、延命治療はしないでほしい”と言っていて。“わかった、そうするよ”と答えていました

 長野さんは毎朝電話をかけていたが、ある日、敏子さんが電話に出ないので家を訪ねると、リビングで倒れていた。救急車を呼べば、おそらくそのまま入院することになるため、敏子さんは意識が少し残る中で、救急車を拒否。

 困った長野さんは敏子さんが介護認定を取っていたことを思い出し、地域包括支援センターに連絡。すると往診の医師を紹介してくれた。

往診に来た先生が、母は重大な疾患はなく老衰で、1か月持つかどうかの状態だと。それなら私が在宅で看取りをしようと決めました

 長野さんは介護に専念し、外せない仕事がある時は夫に代わってもらった。そして1か月後、別れの時がくる。

老衰って食べるもの、飲むものを拒絶していって、枯れ枝のようになっていくんです。ついに危ない状態になったので夫に電話して、今晩はこっちに泊まると母の枕元で話したら、意識がなかったはずの母が、私の身体を足で小突くんですよ。これは“私は大丈夫だから、家に帰れ”という意味だと。最期まで自立を望んだんでしょうね。翌朝行くと、まだ息があったので安堵していたら、お昼ごろに呼吸が荒くなってきて。夫を呼んで、2人で母の手を握り泣きながら見守りましたが、しばらくして呼吸が止まって。あ、今亡くなったんだ……と

 つらい別れを、どう乗り越えていったのだろうか。

最期はどうしたいか母の希望をたくさん聞いて、母の望む形で最後まで看取れたという思いが、一番自分を救ってくれました。喪失感は埋められないですけど、親が先に亡くなるのは本来いいことだし、親孝行なわけですから

 60代を迎え、今年3月には国連の難民支援機関であるUNHCR協会の理事に就任。4月からはラジオで初の冠番組『長野智子アップデート』(文化放送)がスタートした。大人世代向けにその日起きたニュースを生放送で振り返る内容だ。

 長野さんは大学時代に文化放送の『ミスDJリクエストパレード』でDJを務めた経験があり、古巣への帰還となる。長年いたテレビ業界から離れたことで見えてきた景色もあった。

新しいことを始めてみると、テレビでいろんなことを扱っていたけれど意外と何も知らなかったなと気づくことが多い。テレビでできなかったことに挑戦している今が、心から楽しいんです

 長野さんの人生後半戦は、始まったばかりだ。

取材・文/小新井知子

1962年、米ニュージャージー州生まれ。上智大学卒業後、フジテレビに入社。'90年に退社してフリーになり、報道キャスター、番組司会など幅広く活躍。現在は文化放送のラジオ『長野智子アップデート』に出演中。