たった一人で表紙のカバーガール
1953年には歌手デビュー。映画に歌にと活躍する美少女を、出版界も放っておかない。光文社発行の雑誌『少女』で10年もの間、たった一人で表紙のカバーガールを務めた。
ところが今だったら羨望ものの活躍ぶりも、松島家では大不評だった。
「“子役になるなんて……”と親戚中に泣かれました。女性の社会進出も少ない時代。小さい女の子を働かせるなんて“落ちぶれた”っていう意味です。スカウトされて大喜びするなんてとんでもない! でも、しょうがないじゃないですか。父はシベリアで生死不明で、働き手がいないんですから」
当時の映画界は深夜ロケも当たり前。子役とて例外ではない。子ども時代の思い出といえば、仕事だけ。仕事、仕事の毎日しか記憶にない。
「5歳から15歳ぐらいまで、私は確かに芸能界の頂点にいたようです。
小学校に入るときにはすでに有名人でしたから、上級生が覗きに来るし、同い年の子とは遊んだことがない。学校は出席日数を稼ぐために行くところで、授業を終えたらすぐに撮影所で大人が相手。ですから、同世代と話したくても話が合わないの。私、今だにジャンケンができないんですよ」
スターという栄光と引き換えに失った子ども時代。それでもスターでなければできなかったことは確かにあった。
「敗戦で日本中が貧しく、沈んでいた。でも私には、“そんな日本のおばさんやおじさんを喜ばせて、元気にしてあげているんだ”という自負がありましたね」
1950年、あの巣鴨プリズンで踊ったのは今もよく覚えている。当時、太平洋戦争敗戦で戦犯とされた人たちが巣鴨に収容されていた。5歳だった松島が慰問に招かれ、法被姿で『かわいい魚屋さん』を踊ったのだ。
父・健さんが奉天で召集を受けた後、シベリアで生死不明に(のちに強制収容所での死亡が判明)。命からがら母とともに帰国した少女の踊りに、1000人の収容者たちは涙を流し、何度もアンコールを要求したという。
「アンコールされても1曲しか知らない。同じ曲を繰り返して踊ったのを覚えています。後に絞首刑になったA級戦犯の人たちも、おそらくいらしただろうと思います」
そんな松島の傍らには、常に志奈枝さんの姿があった。3歳で初めて、日比谷公会堂で踊ったときのことだ。
「日比谷公会堂って大きくて、袖から舞台のセンターまで遠いの。子どもにとってはなおさら遠い。今と違ってセンターに印も明かりもないから、目安がなくて、どこがセンターなのかわからない。だから母がセンターの何列目かの客席に座って、ハンカチを振ってくれたんです。私はそれを目印にして、センター目がけて走っていって踊りました」
松島が中学生時代、女性の自動車免許取得など珍しかった時代に、志奈枝さんは免許を取得している。松島の送り迎えのためだ。もちろん専属のドライバーはいた。だが、それだと母娘で自由に話すことができない。仕事場ではスタッフが、自宅にもお手伝いさんがいるので“二人だけの時間”がなかなかとれない。それを気にした志奈枝さんが、車内を二人きりの空間にしたのだ。
「それ以来、車の中が宿題したり、お昼寝したり、たわいのない話をしたり。まるで自宅の親子だけのリビングみたいに、何をしていてもOKな場所になりました」
だが、そこまで娘を思い、大切にした母は同時に娘への嫉妬に燃える母でもあった。
25歳の松島が恋をしたときのことだった。志奈枝さんがその結婚を、半狂乱になって反対したのだ。
「母は私が男の人に夢中になっているのを見るのが嫌なんです。他の子を可愛がる母に子どもの私が焼きもちを焼いたのと同じように、母もそうだったんじゃないですかね」
母が賛成してくれていたら、あるいは母でなく恋人を選ぶ覚悟があったら、まったく違う人生を送っていたかもしれない。だが松島は、万感の思いを胸に秘め、さらりとこう語るにとどめる。