アルフィー誕生前夜の出会い
実は最近、初めて3人が出会ってライブをやった日がわかったという。
桜井「'73年の5月19日。場所は『キッド・アイラック・ホール』でしたね。ずっと日にちがわからなかったけど、最近になって偶然メモが出てきてわかったんです」
『キッド・アイラック・ホール』とは、東京・京王線の明大前にあった、'16年に閉館した美術・舞台芸術・ライブのホール。
浅川マキ、寺山修司など当時先鋭的とされた芸術家たちが活躍した場所だった。
坂崎「その前日、高見沢と学校で会って、2人でビートルズとかハモったんだよね。高見沢は、生まれて初めて人とハモったんだよね(笑)」
高見沢「それで、僕は生まれて初めて“自分ってキーが高いんだ”と気づきましたよ(笑)」
この当時、高見沢と桜井は、同じ明治学院高校の同級生。坂崎は、都立墨田川高校にいたのだが、高見沢とは顔見知りだったのだ。
桜井「で、ライブ会場に行ったら高見沢が来ていて“え? おまえなんでここにいるの?”と聞いたら“歌うんだよ”。“誰と?”“おまえたちとだよ”。“ええ?”となって。それからずっと一緒にいます(笑)」
坂崎「当時メンバーはもう1人いて、全部で4人。何かコピーものやったんだよね。ビージーズとか。あとちょっとしたオリジナルとか。GAROもやったかもしれない。『ロマンス』とか『君の誕生日』とか。GAROには憧れていましたよね。
3声のハーモニー。アルフィーのファンがGAROを聴くとね、“アルフィーが傾倒してたのがわかる”と言うんですね」
もともと、桜井は同級生とサイモン&ガーファンクルなどのコピーを歌うフォークグループ『コンフィデンス』を結成していた。'72年に楽器店で開催されたフォークコンテストに出場し優勝。その会場で、ソロで出場していた坂崎に出会った。
このライブをきっかけに、コンフィデンスに坂崎が加入。そして、『キッド・アイラック・ホール』のライブで飛び入りした高見沢が加入、今のTHE ALFEEにつながる3人が顔をそろえた。
ちなみにGAROは、'70年から'76年まで活動したフォーク&ロックグループで、'73年に『学生街の喫茶店』、『君の誕生日』、『ロマンス』などのヒットで知られる。メンバーは、堀内護さん、日高富明さん、大野真澄で、卓越したコーラステクニックとアコースティックギターのテクニックも評価されていた。
後にアルフィーは、GAROと同じ事務所に所属することになるのだが、実はGAROのライブコンサートを、高見沢と坂崎は、警備員のバイトとして見ていたのだ。
坂崎「警備員なのに、観客のほうを向かないでステージをずっと見てましたね」
高見沢「それも最前列の前で(笑)」
桜井「お金も払わずに、逆にお金をもらって最前列のさらに前(笑)」
デビューしたが鳴かず飛ばず。その結果
彼らは、3人とも明治学院大学に進学。坂崎と高見沢は文学部英文学科、桜井は法学部法律学科だった。3人ともそれぞれの事情で大学は中退したのだが、'14年3月、これまでの功績をたたえられ、明治学院大学から3人は「名誉学士」の称号が授与されている。
'74年に「浪漫派アルフィー」のキャッチフレーズとともに、アイドルフォークバンドとしてシングル『夏しぐれ』でデビュー。このデビュー曲も第2弾シングルの『青春の記憶』もヒットには至らなかった。
その後、'75年に現在の3人体制となり、3枚目のシングル『府中捕物控』が発売……、のはずだったが直前にレコード会社の意向で発売中止となる。これは、この曲が三億円事件のパロディーソングだったことが、会社の意向に沿わなかったためとされている。それをきっかけにレコード会社との契約は解除。
そこから事務所の先輩であるかまやつひろしさんや研ナオコ、GAROのメンバーの大野真澄などのバックバンドを務めるようになり、ライブハウスで活動を続けることに。
研ナオコやかまやつさんのツアーでは、THE ALFEEのコーナーを設けてもらい、この当時からコミカルなコントやトークで盛り上げていた。
当時、THE ALFEEとツアーを共にしていた研ナオコは、彼らのハーモニーのすごさには驚いたという。
「すごいと思いましたね。あの子たちはずば抜けてましたよ。それに頑張り屋だから、ほかにはないグループになるな、とは思ってました」
研ナオコは彼らにショーの手ほどきをした。
「ショーをやるとなると、パフォーマンスでお客さんを飽きさせない必要があるでしょ? だから、笑ってもらう必要がある。そのことを一緒に考えてやってましたよ」
実は何年か前にアルフィーのライブに行ったとき、メンバーに「どうでした?」と聞かれたこともあったらしい。
「で、音楽はともかく、高見沢と桜井のやりとりにダメ出しをしちゃいましたよ(笑)」