先輩たちに可愛がられて
高見沢はGAROの大野から憧れのアコースティックギター「マーチンD45」を譲り受けた。この「マーチンD45」は、'70年代のトップミュージシャンたちがこぞって使っていた、アコギマニア垂涎の高級ギターである。
坂崎「ずっと高見沢に、大野さんがそのマーチンを貸してたんですよ。それを買った」
高見沢「お互い近所だったから、よくお酒飲ませてもらってまして。で、酔っぱらった勢いだったと思うんだけど、大野さんが“おまえだったら売ってもいいよ”と言ったんです。“ホントですか?”と。それで何とかギター代をかき集めて、翌日持っていったんですよ」
桜井「大野さん、絶対集まるはずないと思ってたんだよ。だって、酒代もないようなヤツなんだもん(笑)」
高見沢「そう、でも、ホントに持ってきちゃってね(笑)。そしたら“俺、そんなこと言ったっけ”って言われたので“言いましたよ”って(笑)」
坂崎「それも現金で」
桜井「現金の強さ(笑)」
高見沢「40万円くらいだったかな。今は10倍くらいしますよ。まあ、後輩価格だね。可愛がってもらっていたので」
大野も、高見沢に譲ったマーチンD45のことを覚えていた。
「あのギターは(彼に)貸していたもので、返すとかではなくそのまま使っていてもいいからねって思っていたんですけど、ある日、本人が“ぜひ売ってください”と、ビール半ケースと現金持ってやってきたんですよ。まあ、熱意に負けて手放しました」
GAROのコピーもやっていたアルフィーには前座に出てもらったり、解散後はバックを務めてもらったりしたという。
「達者な人たちだなと思ってました。『かぐや姫』の若い版って感じで、しゃべりもハーモニーもうまいなあと思いましたね」
流れを変えた『メリーアン』の大ヒット
なかなかヒット曲には恵まれなかったアルフィーだが、'79年に「Alfee」と表記変更して再デビューし、フォークグループからロックバンドとして活動を始める。
フォーク時代から注目を集めていた抜群のコーラス、そしてサウンドはロック。ここでほかのバンドとは一味違った“アルフィー”らしさが熟成されていったのだ。そして、高見沢も長年アルフィーでは、エレキギターを弾かないことにこだわっていたが、'80年に出された3枚目のアルバム『讃集詩』から間奏のソロを入れるようになる。
この後、'82年に所沢航空記念公園で行われた初の野外イベントでサポートメンバーを加え、ドラムス、キーボードを含むロックバンド編成で演奏を行うようになる。この年の暮れには、「Alfee」の表記を「ALFEE」に変更。そして'83年に大ヒット曲『メリーアン』が世に出ることになる。
この年の『紅白歌合戦』にも出場。さらに'84年には『星空のディスタンス』、『STARSHIP−光を求めて−』などのヒット曲が続き、テレビの音楽番組の常連となってゆく。'86年のシングル『SWEAT & TEARS』からグループ名表記を「THE ALFEE」に変更し現在に至る。バンド形態になってから、アルフィーは“ライブバンド”として、全国を回っていく数が増えていった。最も多い年では、年間113公演。本来なら、今年でコンサート3000本という記録に到達するはずだった。しかし、コロナ禍でそれは先送りになってしまった。