早稲田大学在学中にスカウト 芸能界へ
こうして、当時の心境としては“大失敗”の結果、私立の最難関・早稲田大学政経学部に進学。だが、ここでも無気力になっている暇はなかった。縁あって『POPEYE』や『MEN'S CLUB』というファッション雑誌に出たり、ファッションショーでランウェイを歩くようになる。
大学2年のときには飲料水のCMで1か月、サンフランシスコ郊外でのロケ。自分の英語力を試したり、現地で知り合いもできるなど、現在に続く英語スキルを磨くきっかけとなった。ギャラも破格で「札束が立ったんだよ」と笑う。マクドナルド江の島店開店時のCMにも出演するなど、大きな仕事を次々とつかんでいった。
「大学は試験のときだけ行って、ほかは全部仕事。試験は友人のおかげで何とか乗り切ってました」
順調なモデル業だったが、大学4年で役者業へ方向転換する。初仕事は'83年放送の連続ドラマ『婦警さんは魔女』。藤岡弘、につけてもらった芸名“伊達祐二”で1クール13話にレギュラー出演する。
「だけど次に決まったドラマ『悲恋』('83年。八代亜紀さん主演で阿部はその相手役)で、プロデューサーから『芸名だと新人っぽくないから、本名に戻してくれ』と言われて。せっかくつけてくれたのに藤岡さんには不義理を働いちゃったな」
そんな中、少しだけ就職活動をしたことも。大手新聞社の一次試験にも受かった。だが、
「紹介してもらった人の手前、一応、受けたという感じ。でもここでジャーナリズムをやりたいという気持ちが少し生まれて、その後につながっていくんです」
リポーター・阿部祐二の萌芽。だが、結実までには10年間のつらい役者人生があった。『不良少女とよばれて』('84年)や二谷英明さん主演の人気シリーズ『特捜最前線』('77年~'87年。阿部は'85年から最終話まで)など話題のドラマに出演し仕事自体は順調だったが、現場での陰口やいじめが続いたのだ。
「二谷さんとか八代さんとか、優しくしてくれた人ももちろんいたけど。下っ端だから、大御所の人が画面に影を出しても『おまえ、何やってんだ!』ってスタッフに俺が怒られて。ご本人が『出したの、俺だよ』と言うと、『あ、そうでしたかー』とか。空き時間に英字新聞を読んでると、『そういう態度が気に食わない』と言われたり。でも、ここでやめたら負け犬だと思って、我慢して続けていた」
生涯のパートナーとの出会い
そんな役者時代に、のちに妻となる阿部(旧姓・礒村)まさ子さんとの出会いが訪れる。当時、人気プロゴルファーだったまさ子さん。始まりはスポーツジムだった。
「ちょうど『特捜最前線』でファンとのハワイ旅行があって、ゴルフコンペで優勝したんです。それでルンルンで帰ってきて、ジムで『今度一緒にゴルフやらない?』なんて声かけて。プロゴルファーだと知らなかったから。家内は『いいですねー』とか言って、職業を明かさないわけ。
あとでトレーナーが教えてくれて、慌てて謝りに行ったら、『いいんですよ。よかったら今度、試合を見にきてくれません?』って誘ってくれて。俺らしいでしょ、ちょっとコンペで優勝したくらいで“教えてやるよ”なんて。だからダメなんだよなあ」
まさ子さんは、当時のことをこう振り返る。
「話しかけられる前から鏡越しに私を見ていて。たぶんシャイだったんですね。あまり意識してなかったんですけど、試合に応援に来てくれたとき、大勢の人がいる中で彼だけパッと浮かび上がっているように見えて、“この人は特別な人になるのかな”と」(まさ子さん)
'88年、二谷英明さん・白川由美さんの仲人で、ふたりは結婚式を挙げた。このとき、阿部は家庭教師を派遣する有限会社を立ち上げる。大学時代に始めた家庭教師業を、役者になってからも“この仕事は大変だから収入源をほかに持っておけ”とアドバイスを受け、続けていた。結婚を機に、自分も教えつつほかの教師も雇う会社組織にしたのだ。
「結婚するから収入を安定させるために。バブルの時代で、ものすごく成功したよ。教えた子たちが有名校に入ってくれて、ギャラも上がってね」