リポーター仕事との出合い
“これは俺が続けていく仕事ではないなあ”と思いながらも続けていた役者業。そこに転機が訪れる。35歳のとき、リポーターをやらないかと声をかけられたのだ。やりたいと言ったこともなく、まさに青天の霹靂。だが、“こういう仕事、昔やろうと思ったな”と、新聞社の就職試験を受けたことを思い出す。
「なぜ声をかけられたのか、今でもわからないんですけど。テレビ朝日の『ニュースステーション』をやっていた方が、『やってもらいたいけど、うちでは難しそうだからTBSを紹介する』と。それでTBSの『ザ・フレッシュ!』という情報番組で初めてリポーターをやったんです」
このとき、リポーターの仕事に集中するため、家庭教師の派遣会社を畳んだ。まさ子さんは、「挑戦してみたら?」と背中を押してくれたという。
「家内には感謝しかないよね。会社の収入が安定していたのに、全部捨ててリポーターをやるなんて普通は不安でしょ。しかもそのとき、娘(桃子さん)がお腹の中にいたし。よくやらせてくれたと今でも思います」
だが、まさ子さんには不安はなかった。
「それまでもいろんなことを突破してきた人だから、いい転機かなと思ったんです。また私が妊娠中もゴルフを教える仕事をしていたので、金銭面もなんとかなるだろうと」(まさ子さん)
'94年、36歳でのリポーターデビュー。最初は事件ではなく、結婚直前の女性に取材するという特集企画だった。そこに『つくば妻子殺害事件』が起き、初めて事件リポーターとして中継を担当することに。
「これはひどいリポートだった! 捜査員や鑑識の人が動いているのに何の言葉も出てこなくて、庭にゴールデンレトリバーがいたから『ゴールデンレトリバーがいます!』とだけ叫んでいた」
そんな失敗にもかかわらず、チーフプロデューサーが使い続けてくれたおかげで場数を踏んでいく。そしてTBSでの番組が終了すると、日本テレビ『ルックルックこんにちは』へ。時は20世紀末。阪神・淡路大震災やオウム真理教事件、神戸連続児童殺傷事件など、日本中で大事件が立て続けに起きていた。
ベテランリポーターたちが全員取材に出払った後、阿部しか残っていない状況で事件が起これば、新人の彼が行くことになる。
「それで、どんどん大きな事件をメインでやるようになっていきました。名うてのリポーターがいるのに。なぜかというと、俺が誰より早く現場に行くから」
もちろん、それだけでメインになれるわけはない。この仕事を始めてから生まれた“されどリポーターと言わせてみせる”という目標を実現するため、すさまじい勉強を始めたのだ。
「情景描写の訓練のためにボキャブラリーを増やしたくて、本を読みまくったり。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』はとてもためになりましたね」
毎朝、新聞5紙を読む
毎朝、新聞5紙を読み、『ジャパンタイムズ』を持ち歩く。扱う事件の情報は事前にすべて頭の中にインプットしていた。しかも、これは「除外するために」というから独特だ。
「ほかの媒体がすでにやったことは、僕にとっては除外の対象。『それ、もうやってたよ』と僕が言うとディレクターは嫌がったけどね(笑)」
'01年の9・11アメリカ同時多発テロ事件ではニューヨークに3週間滞在して、取材を敢行。通訳なしで現地の人々にインタビューし、英語に対する自信を深めた。
90分の番組中、最初から最後まですべてのリポートが阿部になったこともある。
「スケジュールを聞かれて、全部空いていると答えただけなんだけどね。ほかのリポーターには『なんで阿部さんだけ』って、すっごい言われた(笑)」
'06年からは『スッキリ』がスタート。司会の加藤浩次に呼びかける「加藤さん、事件です!」のセリフも話題を呼び、阿部は一気に全国区になる。さらに多忙になり、ほとんど家にいられない日々。まさ子さんは「娘には小さいころから『予定は未定よ』と言っていました」と語る。
「家族で旅行に行っても、大きな事件が起きたら主人ひとりで帰るんです。それでも娘と私は『行ってらっしゃい』と気持ちよく送り出していました。時間がある限りは一緒にいたいという彼の気持ちがこちらにも伝わっていたから『頑張らなきゃね』って。ただ、夜中に電話がきてタクシーで遠方に行くときなどは、かわいそうだなと思ったりもしましたね」(まさ子さん)
子育てで困ったことはないというまさ子さんだが、唯一の難点は阿部が娘を叱れないことだという。
「娘に嫌われるのがイヤだから。3人で座っているのに『それはダメだよね』と私に言ってきて、それを私が娘に伝える、なんてこともありましたね(笑)」(まさ子さん)