目次
Page 1
ー 『振袖火事』という物語 ー 東京藝術大学を首席で卒業し、フィンランドを拠点に
Page 2
ー 声楽家のマリアさんと結婚して子宝に恵まれる
Page 3
ー ファンクラブができ、岸田今日子さんと共演 ー 脳出血で右半身不随になるもリハビリを楽しむ
Page 4
ー 「左手のピアニスト」としてコンサートを再開
Page 5
ー 美智子さまが癒され、ピアノの連弾演奏も
Page 6
ー インドでの衝撃の体験とスタンディングオベーション

 小泉八雲といえば『耳なし芳一』をはじめ怪談で知られる作家だが、『振袖火事』という物語はご存じだろうか。

『振袖火事』という物語

ピアニスト・舘野泉(87)撮影/佐藤靖彦
ピアニスト・舘野泉(87)撮影/佐藤靖彦

 ある商家の娘がすれ違った美しい侍に一目惚れをする。その男が着ていた着物と同じ柄の振り袖を作って思いを募らせるが、思いが高じて振り袖を脱がなくなり、ついには病気になって死んでしまった。娘が埋葬された菩提寺の住職は、娘が着ていた立派な振り袖を古着屋に売ったものの、その着物に袖を通した娘たちは次々と死んでしまう。住職は呪われた振り袖として寺で燃やすことにすると、振り袖が舞い上がって江戸の町を燃やしてしまった─。

 これは1657年に起こった「明暦の大火」を題材にしており、娘の情念の深さが大火の原因であったという怪談である。

 この小泉八雲の怪談の世界をピアノで演奏して魅了するのが、「左手のピアニスト」と呼ばれるクラシック界のレジェンド、舘野泉だ。舘野の友人であったフィンランドの作曲家、ペール・ヘンリク・ノルドグレンが、脳出血で右手が使えなくなった舘野のために作曲したのが、『小泉八雲の「怪談」によるバラード2 作品127』(2004)だった。

 2024年9月20日、旧東京音楽学校奏楽堂では、故・ノルドグレンの生誕80周年記念演奏会が開かれた。小泉八雲の怪談を女優の元田牧子さんが朗読後、舘野が『振袖火事』『衝立の女』『忠五郎の話』の怪談3部作を演奏する。打ちつけるようなフォルテッシモから始まり、娘の情念の揺らめきの音が会場を包み込む。左手だけで弾いているとは思えない迫力ある演奏を、観客は固唾をのんで聴き入り、演奏終了後には万雷の拍手が鳴り響いた。

 今年は6月までに日本で30公演を行い、8月にフランス、ドイツ、フィンランド、9月にインド、ブータン、ネパールでの公演を敢行。11月には88歳を記念して3つのバースデーコンサートが控えている。

 東京にあるファンクラブ(FC)は創立50年を過ぎ、札幌、仙台、南相馬、大阪、福岡のFCは創立されてから40年になる。そのほかデュッセルドルフ、マニラにも存在するなど、人気が衰えることはない。

「演奏への情熱は若いころと変わりません。来年もスケジュールはいっぱいですし、まだ引退はしませんよ」と舘野は柔和な笑顔で話す。

東京藝術大学を首席で卒業し、フィンランドを拠点に

幼少のころ
幼少のころ

 舘野は1936年、チェリストの父、ピアニストの母のもとに長男として生まれた。2人が自宅で音楽教室を開いていたことから、常に身近なところで音楽が響いていたという。

 きょうだいは4人で、舘野がピアノ、弟はチェロ、妹2人がバイオリンとピアノを習っていた。東京・自由が丘の自宅では、舘野がピアノの練習をしている横で弟は学校の宿題をし、妹は昼寝をしている。そんなのんびりした子ども時代だったが、後にきょうだい全員が音楽家になったというから環境の影響は大きい。

チェリストでもある弟の英司さん(左)と
チェリストでもある弟の英司さん(左)と

「父は『音楽家として生きていくほど幸せなことはない。子どもが生まれたら皆、音楽家に育てるんだ』と言っていたそうですが、かといって英才教育をしたわけでもなく、われわれ子どもたちは野球をしたりトンボやセミ捕り、ザリガニ捕りなどで遊び回っていました。でもそれと同じようにピアノもチェロも好きで、生活の一部として毎日弾いていましたから、自然に音楽が身につき、音楽家として生きるのは自然で自明のことだったのでしょうね」

母に抱かれて
母に抱かれて

 舘野は小学生のとき、習字の授業で紙からはみ出すほど大きな字を書いて先生に叱られたが、母は「はみ出すくらいが面白いのよ」と褒めるような人だった。

 舘野がピアノを習い始めたのは5歳。10歳のときにはドビュッシーの『子供の領分』を弾いて全日本学生コンクールで2位入賞。それからは豊増昇、安川加壽子、レオニード・コハンスキーといった一流の音楽家に師事し、ピアノの腕を磨いていった。

 中・高は慶應義塾に通い、一浪して東京藝術大学へ入学。首席で卒業した舘野は、すぐにデビューリサイタルが実現するなど、クラシック界から一目置かれていた存在だった。しかし、日本を離れて世界を回った後、27歳でフィンランドへ移住することを決めて周囲を驚かせた。

音楽のキャリアを積むなら、ドイツやオーストリア、フランス、イタリアなどに行くことが当時の常識でした。でも従来の権威や価値観に縛られるのが嫌で、西洋音楽の伝統が強い国には行きたくなかったのです。文学や絵画、演劇にも興味があり、幅広く伝統や文化に触れたい、雑音が入らない場所で1人になってみたいという思いもありました」

 実はもともと「北」への憧れが強かった。中学生のときに北欧文学に触れ、高校時代にはペンフレンドを求めて北欧4か国に手紙を出したことがあるという。

「そのとき返事が来たのがフィンランドの女性だけで、ペンフレンドとして交流が続きました。移住を決めたときも、その女性と家族がサポートしてくれたのです」

 1964年10月、舘野はフィンランドで初めてのリサイタルを開いた。シューマン、ラフマニノフ、プロコフィエフに三善晃のソナタを演目に加え、圧倒的な演奏で日刊紙7紙で絶賛された。しかし仕事のオファーはすぐには来なかった。

「フィンランドにやってきて5か月で日本から持っていったお金が底をつき、下宿を追い出されてしまいました。そんなときに教授の仕事をオファーされ、しばらくは教職につくことにしたのです」

 そのうち演奏会の機会が増えていき、知名度も上がっていく。1968年にはフィンランド唯一の音楽大学、シベリウス・アカデミーの教授に招聘され、音楽家としての地位を確立していった。