中山さんの歌手デビュー曲『C』のディレクターだった元キングレコードの福住朗氏も、やはり初対面で寡黙な人と感じたと話す。
「当時は売り込みが多くて、みんなよくしゃべる。その中で彼女はあんまり質問には答えずに頷いたりとか、そういう感じだったんです。この人はオーディションで落とされるだろうなって思いましたよ。だってしゃべんないんだもん(笑)。でも雰囲気はすごくあるんですよ。目力が強くて、オーラがほかの人と違うんですよね」
「うちには明菜がいるから」
中山さんが所属していた芸能事務所『ビッグアップル』の創業者・山中則男氏は、中山さんをどう売り出すか悩んでいた。そんなとき、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の故・寺林晁さんに相談した。
「寺林さんは、中森明菜さんの制作宣伝を統括した“育ての親”だったので、デビュー前に相談したんです。寺林さんは“うちには明菜がいるから、うちじゃないほうがいい。明菜の二番煎じでは絶対に売れない”と話していました」(山中氏)
オーディションには軒並み落選したものの、デビュー曲の『C』は大ヒットして、中山さんは歌手としても人気が爆発。超多忙な生活に。
「ドラマやって、取材やって、夜レコーディングやって、そういう感じの日が続いていたから。殺人的なスケジュール。ずっと走り続けている感じですよ。とにかく駆け抜けたって感じかな。すごい精神力がないと難しいですよね」(前出・福住氏、以下同)
福住氏はレコード会社を退社後に岡山に移住。2024年4月、中山さんが広島でライブを開催した際に会いに行った。