「人を轢いたかもしれない」。もし父親からそう告白されたら……。高齢ドライバーの親を持つ者にとっては、想像もしたくないことだろう。
『翳りゆく午後』の高校教師・敏明が直面するのは、その最悪の事態だ。敏明は妻と息子の三人暮らし。父親の武は妻を亡くして独居だが、80歳を目前に物忘れがひどくなっており、運転も危なっかしい。
「夜のドライブは実話なんです」
元社会科の教師で中学校の校長だった武は自尊心が高く頑固なため、敏明は免許返納を言い出しかねている。この武の人物像は、作者である伊岡瞬さんの父親がモデルだという。
「連載長編を書き始める時は太い柱を立てねばならない。それが今回は私の父親でした。登場人物も、まず最初に武ありきで、それから他の家族をつくっていきました。私の父はすでに亡くなっているのですが、もともとは腎臓病。その治療を拒否していたため、身体に毒素が回って認知症になってしまった。
父親の最後のころのてんまつは、それだけで話になるぐらいいろいろありました。当時、車で片道3時間かかるところに両親が住んでいたのですが、父親の病気が悪くなっていったため、毎週末のように様子を見にいき、病院にも付き添いました。あの時の厳しい体験を物語の柱にできないかと思ったのが取っかかりです」
作中で武の運転に不安を感じた敏明がドライブレコーダーを設置し、走行距離の多さに衝撃を受ける場面がある。
「これも実際にあったこと。ある時、母から電話があり“お父さんが車であちこちに外出しているみたいだ”と。ドキッとしますよね。どのくらいの距離なのか母親がメモしておいたら“昨日の夜、200キロぐらい走っていたようだ”と。ですから、武の夜のドライブは実話なんです」
なぜ武は毎夜のように車を駆っていたのか。その真実が武の口から語られるくだりは高齢者の心の内を映し、読者に重く深い衝撃をもたらす。
「最初から入れようと思っていたセリフではないんです。物語を進めていくうちに、どんどん武という人間が輪郭を取り始めて、彼ならこう語るだろうなと。あのセリフが出た時、この物語はちゃんと成功するのではないかと感じることができた。もうちょっと言うと、あのセリフがあったことで物語が嘘ではなくなったと思います」