迫りくる老い、認知の衰え。誰もが避けられない問題に本書は切り込んでいる。
「ありがちな結論には持っていかないようにしています」
「武の独白に近いことを父親が言っていました。実はすでに私自身、そういう心情になる時があります。車で徘徊したりはしませんけど、夜一人で仕事していると、ものすごい孤独感に襲われて、深夜1時ごろに散歩をしたり。それを“徘徊”という言葉で片づけていいのかと考える時があります。
たとえ認知症でなくても、孤独の気持ちでいっぱいになって歩き回ることって、若い人でもあるんじゃないか。ましてや武のようにプライドが高く堅物で生きてきて、だんだん自分が失われていって、何がどこまで現実なのかが混沌としてくると、いたたまれなさで走り回るというところに行き着くのではないか」
高齢ドライバーによる事故と聞けば、過去に起きたいくつもの痛ましい、そして時に理不尽な暴走事故を思い出す人も多いだろう。
「もともと関心のあった分野ですが、今回の連載を始めるにあたって、そういった事故の当事者たちの発言をピックアップしました。加害者の中には“踏み間違えた”と素直に認める人もいますが、頑として“あくまで自分はミスをしていない”と言い張る人もいる。大切な家族を失った上に、そんな発言をされる遺族の心中を思うとやりきれない気持ちになります。
だからといって、年取って車を運転しているのは良くないよ、だけでは新味がないし、小説を書く意義がない。読んだ人に問題提起というか、私の場合はこうだとかわが家ではこうだとか思ってもらわないと意義がない。あまりありがちな結論には持っていかないようにしています」
伊岡さんの作品は読みだしたら止まらないサスペンスであり、時代を反映したテーマを扱っている。
一方、作品の中核にあるのは常に家族だ。この作品でも、敏明の妻・香苗、中学3年生の息子・幹人との関係が、武のもたらす問題と同期するように不穏さを増していく。47歳の敏明が状況に振り回される様子は、とても人ごととは思えない。
「ドタバタ劇とか、追いつ追われつみたいなのをスクリーンのこちら側で見ているのも面白いと思うんですが、僕の場合は、ふとわれに返って“そういえば、うちの子も幹人みたいにスニーカー脱ぎ捨てるな”“うちの夫も敏明と同じでごはん作ってもひと言も美味いって言わないな”とか共感して、登場人物に感情移入し、物語と同化していってもらえればと思います。
4人の物語があったら、自分が5人目の登場人物としてその場所にいてもらえればいいなと。それが理想ですね」