庶民文化が開花した秘密とは──?
しかし蔦重の快進撃は、いよいよここからが本番である。
吉原で確固たる地位を築いた蔦重は30代で老舗の版元が軒を並べる日本橋・通油(とおりあぶら)町に店を構える。
すると青年向けの娯楽本で黄色い表紙をつけて売り出される「黄表紙」や、遊女と客の駆け引きを描写して野暮(やぼ)な客を笑い飛ばす「洒落本」、天明期には黄金期を迎える「狂歌本」を次々に出版。
朋誠堂喜三二(尾美としのり)や恋川春町、山東京伝、大田南畝たち流行作家を吉原に誘い、宴を催してヒット作を生み出していく手法は蔦重ならではのもの。
特に不世出の浮世絵師・喜多川歌麿(染谷将太)を食客として住まわせ、花鳥画を合わせた『百千鳥狂歌合』『画本虫撰(えほんむしえらみ)』。さらに数々の美人画を世に送り出し、宝暦・天明の時代に一大ムーブメントを巻き起こす。
しかも役者絵で知られる謎の絵師・東洲斎写楽まで世に出したのだから、驚くばかりではないか。
こうした一連の浮世絵版画ブームの誕生にはある秘密が隠されている。
それは、この時代に生まれた多色刷りの浮世絵版画「錦絵」の登場である。
「浮世絵木版画は最初、墨一色の墨刷りから始まり、次第に虹を中心に彩色した紅絵(べにえ)や墨の面に漆(うるし)のような光沢をもたせた漆絵が登場します。さらに日進月歩。7、8色以上の豊富な色を重ねた多色刷りの錦絵へと発展していきました。
ヨーロッパの色彩学が発展したのは19世紀。世界的に見ても、日本の美術が独自の進化を遂げていたことがわかります」
「錦絵」は当時、大名から庶民に至るまで幅広い人気を誇り、江戸の名物として諸国への土産としてもてはやされ、歌舞伎の役者絵、力士を描いた相撲絵などさまざまな「錦絵」が地本問屋(今でいう書店)や絵草紙屋の店頭に並び、飛ぶように売れていたという。
この「錦絵」が海を渡って、モネたち印象派やゴッホなどに影響を与える。このことを見ても「宝暦・天明文化」がいかにレベルが高かったか、おわかりいただけるだろう。
こうした世界に誇れる文化を生み出すには、もうひとつ忘れてはならない秘密がある。
「それは当時の日本の識字率の高さ。江戸時代の武士階級の男子はほぼ全員教育を受けており、識字率は90%以上といわれています。町民たちも寺子屋に通う子どもたちが増え、それに伴って当時の日本の識字率は、世界一といっても過言ではありません。
これほど識字率が高くなければ、蔦重がポップカルチャーを牽引(けんいん)するメディア王になることもなかったでしょう」
しかし右肩上がりの「宝暦~天明」の時代も10代将軍・家治が亡くなり、権勢を誇っていた田沼意次が失脚すると輝きを失う。
その後の蔦重はいったいどうなるのか。今後も大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』を見守っていきたい。
取材・文/島 右近