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 “世界のケイ”こと錦織圭選手がテニスと出会ったのは5歳のころ。父親がハワイ土産として、子ども用のラケットを与えたのがきっかけだったという。

「テニス経験が少しだけあったご両親が、家族4人で試合をしたくて4歳上のお姉ちゃんと錦織選手にラケットを渡したそうです。初めは島根県松江市の自宅から30_離れたゲートボール場で練習していたとか。だけど、錦織選手はみるみる上達してテニススクールに通うことになったそうです」(前出・記者)

 実は、錦織選手、テニスを本格的に始める前にはさまざまなスポーツを得意にしていたほど!

「テニス以外にも2歳で水泳、3歳でピアノ、5歳で少年サッカーを始め、小1から野球もやっていました。両親とは“嫌だったらやめていい”というルールにして、サッカーは小学5年生まで続きました」(同級生のひとり)

 サッカーではパスを出すのが上手で、視野の広いプレーが持ち味だった。

「自分でガンガン行くよりも、司令塔としてゲームを作っていくのが楽しかったそうです。この経験がテニスでフェイントを入れたり、駆け引きのできるプレーに生きているとも」(前出・同級生)

 テニスを選んでいなければ、サッカーの選手としても大成していたかも!?

 そして、11歳のときには偉大な先輩と出会う。今回、錦織の応援のしすぎでギックリ腰になったという松岡修造だ。自身が主催するテニスキャンプで初めて見たときに「小柄で目立つほうではなかったけど、技術的にはもう僕が教えることはなかった」と、かつて本誌に語っている。さらに試合をしてみたところ、

「当然、僕が勝つじゃないですか。でも、彼は泣きながら“もう1回やらせてください”と挑んできて、再び大泣きしながら“もう1回”という子でした。本当に負けず嫌いでしたよ」

 勝負に賭けるアツさも、先輩に負けてない! 最大の転機は13歳でのテニス留学。両親のすすめや日本テニス協会の援助により、単身渡米し、名門テニスアカデミーで学んだ。

《今振り返ると僕は何も考えてなくて……。あのときはもう、いろいろな人が力を貸してくれて、勝手に道ができていた感じだったので》

 と、本人は回想している。ちなみに、彼の代名詞でもある“エアケイ”(ボールの上がり際をジャンプしながらフォアハンドでとらえる必殺技)も、13歳のときに編み出されたものだ。

「当時150センチしかなく、高い球を強く打ち返すことができなかったため、ジャンプしながら打つことを指導されたとか。エアケイをくらうと相手は予想外なプレーにタイミングをはずしてしまうんだそうです」(テニス関係者)

 指導を素直に聞くところも大成できた要因。身体が大きくなるよう、3人前食べることもノルマだったが、

「嫌いなものがあっても、全部ちゃんと食べていたそうですよ」(前出・関係者)

 というから、プロ意識は昔から高かったことがうかがえる。