【好評連載・フィフィ姐さんの言いたい放題】厚切りジェイソンや堀江貴文、そしてフィフィらの発言でネット上で話題になっている “履歴書(エントリーシート)は手書きで書くべきか否か”問題。先日からツイッタ―アカウントで断片的に意見を発信してきたフィフィであるが、ここで改めて手書きの具体的な意義について語る。
対“企業”ではなく対“人”として考えるべき
私自身、企業に3年間勤めていたことがあるので、就職活動の際に履歴書を書く大変さについて一応は理解しているつもりです。
数撃てば当たるという姿勢で就職活動が行われるご時世ですから、履歴書もパソコンで効率良く書いてしまいたい、いちいち手書きで書くなんて時間のムダだという気持ちもわかります。もちろん最も大切なのは、書かれている内容そのものですからね。
だけど、面接までいったならば、企業側としてはその人の思い入れの強さや個性を見極めたいというところが少なからずあります。今後、長いあいだ一緒に働いていくことになるわけですから。そのときに、その人物を理解する術として“筆跡”というのは、ひとつの判断材料となるのではないでしょうか。つまり、就活生としてみれば、アピールチャンスにもなるわけです。
字が上手いか否かが重要なのではありません。丁寧に書いているか、ひと手間かける思い入れの強さがあるかということです。
実際“手書き履歴書”を採用試験に取り入れている企業の人事の方に聞いたところ、丁寧さなどを含め、読んでもらおうと思って書いているか否か、その熱意は伝わってくると言っていましたよ。同時にある程度、字から個性も見えてくるとも言っていました。
筆跡がその人の性格や個性すべてを表していると言うわけではないけど、まったくそうでないとも言い切れないよね。少なくとも、アルファベットに比べ、漢字や仮名には筆跡が出やすいし、個性を見極める、ひとつの判断材料として機能する力は持ち得ていると思う。
例えるならば、お箸をきちんと持つことができるか、食べ方が綺麗か、といった礼儀作法と近いところがあるよね。自分の彼氏や彼女の食べ方に品がなかったならば、やっぱり気になるでしょ? 敬語だってそう。営業先で敬語をきちんと使えない人がいたら、今後仕事上で深く付き合いたくないな、と思ってしまうはず。人を判断するとき“見る・見られる”が重要な指標である日本社会においては、評価を落とすことにも繋がってしまう。
字に関しても同じだよね。対“企業”として見るのではなく、対“人”として考えたとき、履歴書に一生懸命丁寧に書かれた字からは、きちんとしているなという印象、好感度を抱きますよね。いくら組織とはいえども、企業もつまるところ人と人との付き合い、コミュニケーションが根底にあるわけですから。
手書きから伝わるものとは?
ホテルにチェックインするときや、何かの会員になる際のサインといった機会でもなければ、めったに人の書いた字を見る機会もない時代ですよね。
そうした時代においてなお、手書きのファンレターをいただくことがあるんです。ブログやツイッターで応援メッセージをいただくこともありますけど、手書きのファンレターからは、やはりそうしたものとは一味違ったありがたさ、うれしさを感じます。その想いに応えたいという気にもなりますし、字を書くことの重みが伝わってきますよ。そういえば、ちょうど年賀はがきが発売されましたね。いまや、SNS上でお手軽にできてしまう年始の挨拶ですが、ますます手書きされた年賀はがきのありがたみを実感してもらえるかもしれません。
すべてを効率重視にしてしまうと、極端な話、面接すらいらなくなり、成績や資格のみでその人物は判断されてしまうことになるわけです。第一、日本というのは社会に出た途端、履歴書の比にならないくらい、いきなり大変になる社会です。そこだけ効率化といって甘やかしても、仕方がないと思いますけどね。
《構成・文/岸沙織》