70年前、国民は戦争から解放された。肉親や友人ら大切な人を失った。なぜ、また戦争に怯えなくてはならないのか。私たちは戦争の怖さを体験者から学んだはずなのに……。あの夏、何があったのか、戦争体験者に聞いた。
◆「もう動けない。殺して」何度も懇願したが、周りの優しさに生かされた
ーー島袋淑子さん(沖縄・那覇市 元ひめゆり学徒隊)
「下弦の月が照らす、とても静かな夜でした。その日の米兵の攻撃はひどくて、一帯にネズミ1匹残さないほどの勢い。1日中逃げ続け、“やっと突破できた”と胸をなで下ろしていたんです。急にパーッと照明弾が降ってきて、右足のひざと、太ももをやられました」
と、元ひめゆり学徒隊の島袋淑子さん(87)は目を伏せる。
1945年3月、「いよいよお国のために尽くす時がきました」と告げられ、240名の仲間とともに南風原(はえばる)の陸軍病院へ動員された。「きっと勝ち戦だ。1~2週間安全な病棟で看護をしていれば、帰って来られる」と信じていた。
ところが、2週間たっても1か月たっても、戦争が終わることはなかった。4月1日の米兵沖縄上陸以降、日本の負傷兵は急増。28日には自然洞窟の中にある糸数分室へ移動命令を受けた。生徒16人で600人ほどの重傷病兵の食事介助や汚物処理、手足切断手術の手伝いから遺体埋葬まで行うという、過酷な状況。
「両手がない人や血と泥まみれの人……ひどい傷を負った兵隊さんがうめきながら運ばれてくるんです。壕(ごう)内は悪臭と断末魔が絶えなかった。ケガ人の数が多すぎて、麻酔が効き始める前に手術を始めるんです。“ギャー! 死んだほうがましだ! 殺せ~殺せ~!”と暴れ叫ぶ兵隊さんを押さえつけて手術をします。初めは光景に耐えられず気持ち悪くなっていたのに、だんだん切断された手足を見るのも平気になっていきました」
極限状態の中で、だんだんと異常に慣れていく学徒たち。状況が好転することはなく、南部へ撤退するも、新しい壕も爆撃にあい、数名が死んだ。
6月18日、ついに軍から解散命令が出された。「今日からは自らの判断で行動せよ」と突然、敵前に放り出され絶望の淵に立たされた。
「壕を飛び出したものの、行くあてなんてありません。“捕まったら辱(はずかし)めを受け殺される”と教わっていましたから、“そうなる前に”と自決を選んだ友もいました。断崖に追いやられ海の底に消えた子、砲弾に倒れ苦しみつつ息絶えた子……わずか数日で100人あまりが亡くなりました」
島袋さんは先輩3人と砲弾の中をさまよった。目の前の兵隊が撃たれて宙を舞った。先輩と「ああ、あの人は即死でいいね」とうらやんだ。火の海を越え、海岸の岩陰へ。そこで右足をやられたのだ。
「血が噴き出て、歩けなくなりました。流れ弾で右腕も負傷した。右目下に重傷を負った先輩と、“お願いですから殺してください”と言って回り、ついに承諾してくれる兵士を見つけました。“2人一緒なら怖くないね”と、先輩と手をつなぎ、目を閉じました」
どれくらい時間がたっただろうか。恐るおそる目を開けると兵士は手榴弾をかかげたまま2人を見下ろしていた。
「“俺には君たちを殺せないよ。安全なところまで連れていってやる”そう言って兵隊さんは先輩の手を取りました。先には崖があって、私には無理だと諦めていたら、先に行ったはずの先輩が、“あんたひとりを置いていけると思ってるの!”と戻ってきてくれた」
聳(そび)える崖は住民の男性がおぶって登ってくれたという。
「私はみんなに何度も“もういいです。殺して、置いていって”と言ったんです。でも、誰も私を見捨てませんでした。みんなの優しさのおかげで今、生かされているんです」
その後も命からがら逃亡を続行。ある日、気づくと先輩と2人、米兵に囲まれていた。いよいよ辱められて殺される、と、半狂乱で抵抗する2人を押さえつけ、米兵は治療をしてくれた。植えつけられた軍国教育によりずっと反発していた2人だったが、米兵は決してひどいことをしなかった。
「地獄のような戦争から、みんなに命を救ってもらったんだから、真実を語り継いでいかなければと思っています」
島袋さんは、今ではひめゆり平和祈念資料館の館長を務め、戦争を語り継いでいる。
「最近の日本は、いつか来た道を歩まされそうで怖いです。戦争だけは絶対に何があってもダメ。決して国民を守ってはくれません。準備が始まったら止められないから今がいちばん大事。たとえ“貴様ら、来い”と牢に入れられても、私は反対を訴えますよ」