平和記念公園から約12キロにあるJR矢野駅。そこから徒歩10分ほどに私立『ひだまり保育園』がある。園長は檀上由香さん(51)。園舎は祖母、伊藤サカエさん(2000年没、享年88)が過ごした家だ。
伊藤さんは被爆者運動の中心人物だった。檀上さんは毎年夏になると、原爆について保育園で話をする。園児らは「原爆が落ちないように」と鶴を折り、平和記念式典後に平和公園に届けにいく。平和を願う絵も描く。去年は安倍晋三総理に送った。
目を背けるな、知らんぷりするな
祖母の伊藤さんは戦争当時、安芸郡矢野町(現在の広島市矢野)に住んでいた。国防婦人会の会長で市内の建物疎開に出かけていた。
「祖母は当時、矢野駅前で、“今日死んだら靖国に祀られます”と言っていたようです」(檀上さん、以下同)
伊藤さんたちは鶴見橋のたもとにいた。比治山よりも爆心地側だ。そのとき、原爆が投下された。爆心地から約1・5キロだった。「柱の陰にいたおかげで、直接の爆風からは逃れることができたというのです」
伊藤さんの体験を檀上さんは整理して聞いたことはない。一方で被爆者運動の中で何度も話をしていた。
「聞いてもごまかされました。家族には自分のことは語らないけれど、目を背けるな、知らんぷりするなとは言っていました」
入市被爆をした母親(81)や叔母(77)は幸いなことに存命だ。取材には叔母が同席し、伊藤さんの体験談を補った。
「当時は6歳。長いこと歩いて、姉と一緒に、街の中に入りました。比治山の爆心地側に行くと、街が壊れて、ケロイドの人が死にかけていた。なぜ探しにいったのか? 本能的なものじゃないかしら」(叔母)
町内会の生存者たちに対しては矢野地区に帰るよう命令した伊藤さんだが、責任感が強かったため、見つからない人を探し続けた。被爆量は多くなり、ケロイドがひどくなっていた。
「倒れている人を置いていくと心に残って“できんかった。できんかった”と思うようなところがあった。(国防婦人会会長の)立場ではなく、気質だったと思います」(檀上さん、以下同)
どこか遠いところの話ではなく本当にあったこと
毎年、保育園では母親から体験談を話してもらう。
伊藤さんを探しに市内に行ったこと、ヤケドをした人がいたこと、看病しようと思ったが薬が足りなかったこと……。話を聞く園児たちからは「なんで大人はそんなことはいけないこと、って思わないの?」「お話し会で決めればいいんじゃない?」などと素直な反応が出てくるという。
「どこか遠いところの話ではなく本当にあったこととして話しています。ただ、写真を見せるときには気をつけます。子どもによっては、過去ではなく今起きていると思ってしまうので」
伊藤さんは'56年、広島県被爆被害者団体協議会の結成に参画、理事長に就任。同じころ、日本原水爆被害者団体協議会が結成、女性初の代表委員になった。
'77年、国連はジュネーブで被爆者問題のシンポジウムを開催。伊藤さんも体験を語っている。'82年には日本被団協のヨーロッパ遊説団が結成され、伊藤さんも参加。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世に謁見し核廃絶の努力を要請した。
「“私がやらなきゃ”と考える暇もないままにやっていました」
'85年には、旧ソ連のゴルバチョフ書記長から伊藤さんあてに「核実験を一方的に停止する」との手紙が届く。同年8月6日にはヨハネ・パウロ2世がローマ近郊で原爆犠牲者のための特別ミサを行った。バチカンでの原爆投下の公式追悼行事は初めてだった。
国内的にも被爆者への施策について法整備を求めた。'94年には広島被団協などの主催で「国家補償による被爆者援護法」を求める集会を開く。政府・連立与党合意の法案の修正を求める声明文を村山富市総理(当時)も出した。
被爆者運動の中心にいた祖母を持つ檀上さんだが、
「祖母が突き動かされたのは“はぁ、嫌じゃ”という気持ちだった。祖母は祖母として考え、周囲の人たちと運動をしていたのだと思います。私は私なりに、子どもたちにどう伝えるのが最善なのか考えています」
風化に抗い、いかに後世に残すかが問われている。