14歳のとき、当時住んでいたハワイでスカウトされ帰国後、2か月の早さでデビューした早見優さん。
「あのころ、私の中で、アイドルといったら山口百恵さん、桜田淳子さんでした。日本に戻ってきて松田聖子さんの可愛さに驚いたけれど、私にはフワフワのドレスは似合わないし、カメラに向かってニッコリ笑うこともできなかった。当時のVTRを見ると、歌い終わりはいつもキュッと口を結んでいるんですよね」
だが、エキゾチックなムードで人気者となり、“花の82年組”のひとりとして新人賞レースの常連に。
「堀ちえみちゃんはドラマのイメージと違ってとてもしっかり者。私は松本伊代ちゃんよりはしっかりしていたかな(笑)。同期が集まる取材で、中森明菜ちゃんが来ず玄関を見に行ったら、“ごめんね、いま行く〜”って言って、みんなの靴をそろえてくれてて。賞レースは大人のものという感覚で、本人たちは姉妹みたいに仲がよかったですね」
デビュー2年目の1983年、『夏色のナンシー』で大ブレイク。
「それまでは愁いを帯びた曲が多く、この歌をいただいたとき“やっときた!”と思いましたね。地方のイベントにも初めて何千人も見に来てくださり、帰りのタクシーでも私の曲がかかっていて、うれしかった」
歌番組の隆盛期だった当時は生放送が基本。TBS系『ザ・ベストテン』には忘れられない思い出がある。
「その週、私は7位。まだ先だなあとのんびりVTRを眺めていたら、9位と8位の方の中継映像が飛んじゃったんです! いきなり7位の発表に移って、同じ控室にいた聖子さんが“次、優ちゃんじゃないの!?”って。あわてて着替えを手伝っていただいて、口紅を持ったまま(控室を)飛び出したの。黒柳徹子さんに事情を説明しながら塗って、先に出ていたちえみちゃんがサンダルをはかせてくれました。もう、焦りすぎて歌は散々でしたよ」