『週刊女性』が産声を上げたのは1957年。昭和から平成へ、ポケベルがスマホに、時代は移り変わってもニュースへの関心は止まらない。今だから話せる、皇太子妃候補の大本命”小和田雅子さん”スクープの裏側とは。

雅子さまが“お妃候補”として初めて登場した(『週刊女性』1988年1月14日新春特大号)

 1987年末、皇太子のお妃候補として“小和田雅子さん”の名前を初めて公にした『週刊女性』史上最大のスクープ。

 ’85年にお妃候補の専従記者となったS記者が、ある情報から雅子さまにたどり着いたのが始まり。元同級生に写真を借りようとしたところ、すでに4つの報道機関が雅子さまのことを追っていた。

何人もの候補の中、雅子さまを”絶対本命”と確信

「皇室担当の大先輩から、皇室の結婚には必ずご本人同士の“接点”が組まれるから、公私を問わず皇太子の動きをマークし、東宮御所の出入りをチェックすることと教わり、礎としていました。他誌では何人もの名前が挙がりましたが、どの人も皇太子との接点がなく、すでに出会いの場がセッティングされていた雅子さまが絶対本命と確信し、実名を出すことに」(S記者)

 そして、周囲のコメントを集め、雅子さまの写真をアルバムごと借りて歩き、他社が借りられないよう、しばらく手元に保管した。記事の入稿を終えると新聞記者たちに情報をリーク。その号の発売前に、“『週刊女性』によれば~”とお膳立ての情報を掲載、前号比1・8倍増の発行部数を完売!

 その後の紆余曲折はあったが、S記者が確信していたとおり、5年後にめでたくご結婚と相成ったのだ。

 宮内庁記者クラブに所属できない週刊誌記者でありながらも、S記者は複数のカメラマンとともに計8年間、国内外を問わず皇太子のあとを追い続けた。

「アイドルの追っかけと同じ(笑)。どこへでも、非公式の外出にもついていき、動きのない日は御所で張り込み。夏には妻子を連れて、皇太子が訪れる軽井沢へ出かけました。

 雅子さまの名前を出すとなったとき、情報提供者から“記事にしたらこの縁談はつぶれる”と止められ、信頼していた人にも“もう付き合わない”などと言われ傷ついたこともありましたが、ご結婚が決まるとすべて水に流してくれた。貴重な経験でしたね」