遺志を継いだ闘い「生きている事件」
出版社の編集者だったまきさんが木村亨さんと出会ったのは、’89年冬のこと。
「知り合いの市民グループの集まりに参加したんです。ビデオ『横浜事件を生きて』(木村さんらの活動を描いたドキュメンタリー)の試写会も兼ねていて、上映が終わると、木村が立ち上がって挨拶をしました。顔が父親に似ているな、ひょろひょろとしていて、風が吹いたら飛んでしまいそうな感じだなぁというのが第一印象。後日、退院直後だったことを知ったのですが」
名刺交換した2人は、電話で連絡をとるようになり、まきさんは、横浜事件の再審請求活動を行いながらも偉ぶることなく自然体の亨さんに惹かれていく。また、彼の妻が6年前に病死したことも知った。
「木村は60歳のころから喘息を患い、ときどき発作を起こしていました。私は、母親の作った手料理を木村のアパートに届けたりするようになりました」
そして’92年、2人は入籍。まきさん43歳、亨さんは76歳だった。
「再審への道を開いてくれた森川金寿弁護士が結婚の後押しをしてくれたんです。木村は、私に苦労をかけるからと結婚に踏み切るまで時間がかかったんですが、後を継いでくれる人ができたと喜んでくれました」
再審請求は第2次も棄却。そして’98年、第3次再審請求の1か月前、亨さんは喘息発作による呼吸不全で急逝。享年82歳だった。まきさんは亨さんの遺志を継ぎ、再審請求人のひとりとなる。2003年、横浜地裁で再審開始が決定、’05年には東京高裁で再審開始確定となった。
「ポツダム宣言を受諾した瞬間に治安維持法は失効した、拷問はあったと認められた。司法にも良心はあったんだ、60年もかかったがやっと報われたと思っていたら、’06年、地裁で再審公判が開かれたが免訴判決。’08年、最高裁で免訴が確定しました。免訴とは、誰の罪も問わずうやむやにすること。理不尽極まりないことでした」
’10年の刑事補償決定で請求は認められたが、まきさんは納得できなかった。
「どのメディアも“実質無罪”の見出しで、それが私にはショックでした。ただし書きつきの“無罪”をお情けでもらいたいんじゃない。名誉が回復されたとはとうてい思えませんでした。司法は、訴訟記録を自ら燃やしておきながら“記録がない”と再審を突っぱね続け、元被告人たちは“有罪”のままこの世を去ったのです。国の責任をうやむやにすることは、次の言論弾圧につながるのではないか。そう思えてなりませんでした」
まきさんは’12年12月、もうひとりの遺族とともに計1億3800万円の国家賠償を求めて東京地裁に提訴した。昨年棄却されたが控訴。5月には第3回口頭弁論が控えている。