「退造さんは親しい人から“たーさん”と呼ばれ、穏やかな優しい人だったそうです。父親を早くに亡くし、昼は警察官、夜は明治大学で学び、文官高等試験(現在の国家公務員1種試験)に1度で合格した家族の自慢だった。いずれは栃木で働きたい、とも考えていたみたいですよ」
と話すのは荒井の兄の孫の荒井拓男さん(68)。
栃木県では近年、荒井の功績を顕彰する動きが広がる。『荒井退造顕彰事業実行委員会』会長で親戚の荒井俊典さん(79)は、沖縄赴任後、昭和19年1月に1度だけ帰京した荒井の話を伝える。
「このとき、小学生だった長男とともに栃木に帰ったそうです。その晩は(母親の)ワカさんと親子孫3人で川の字になって寝た、それが母と息子の最後の時間でした」
島田と荒井の生死や最期の地は今も不明のままだ……。
「ワカさんは生前“息子は死んでない、沖縄で生きている”と言い続け、退造さんの死を信じなかったそうです」(荒井俊典さん)
軍人の妻として
終戦時、荒井夫人は33歳。島田夫人同様、夫のことはほとんど語ることはなかった。
一方で軍人の妻は異なる。「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文を打ったことで知られる大田実海軍中将。
千葉県長柄町出身で、家に帰れば11人の子を持つ子煩悩な父親だったという。
夫人の大田かつさんと親交があったという元防衛大学校教授の平間洋一氏(84)は生前のかつさんの様子を伝える。
「戦後は行商などをし、女手ひとつで子どもを育てたと聞きました。市営住宅でひとり暮らしでしたが、80代という年齢を感じさせず、性格も豪快でおおらかな女性でした」
しかし、かつさんいわく
「軍人の夫婦は外に出たら“夫にあらず、妻にあらず”なんだそうです」と平間氏。
あるエピソードを記憶している。自衛隊員が殉職し、遺族が泣き悲しむシーンがテレビで放送されたときのこと。
「かつさんは“夫が死ぬことは悲しいですが軍人の妻として人前で悲しみに耐えることが必要”と私に言ったことが、強く印象に残っています」
胸の内まではわからない。
「島田さんも荒井さんも家族の仲がよく、戦争がなければ引き裂かれることはありませんでした。遺族のことを考えると非常につらい」(田村氏)
夫や子どもを亡くした多くの妻や母が涙に暮れ、涙に耐えながら戦後を生きた。