「明智光秀を通して、時代の過渡期を描くというテーマがあります。現代にもつながる大河ドラマになると思います」
一本気な話は今の時代に合わないのでは
そう力強く話すのは、『麒麟がくる』で制作統括を務める落合将チーフ・プロデューサー。大河ドラマの王道ともいえる戦国時代という舞台設定に加え、これまで脇役として描かれることの多かった明智光秀を主役に据えた本作。「なぜ光秀だったのか」と尋ねると、「光秀ありきでスタートしたわけではなかった」と明かす。
「原点回帰ではないですが、戦国時代の群像劇をやりましょうという思いが出発点としてありました。室町幕府が崩壊していく中で、旧時代的なシステムが機能しなくなったとき、新たな若者たちが支えていく。それは今の時代にも言えることなのではないかと。そういったテーマがある中で、誰の視点で描けば群像劇として魅力的になるかと考えたときに、メインの脚本を担う池端(俊策)さんとともに、“明智光秀がいいのではないか”となりました」
光秀の名前が、歴史の表舞台に現れるのは、織田信長の家臣となった40歳を過ぎてからとされている。青年期の光秀が、どのような人生を歩んでいたのか完全に明らかになっていない点も追い風になった。
「豊臣秀吉のように何もないところから自分の力だけで成り上がっていく話や“日本を変える”といった一本気な話は今の時代に合わないのではないかと池端さんとお話ししました。現代はそういった物語に対して、視聴者が嘘くささを感じてしまうというか。ドラマとしては、ひとりの人間が世の中を変えていくほうが作りやすい。ですが、われわれはそういった物語を作りたくなかったんですね」
『麒麟がくる』の序盤では、光秀が主君・斎藤利政(道三)の密命を受け、尾張に潜入したり、鉄砲の作り方を調べたり東奔西走する。その姿は、さながら上司に命じられて仕事を覚え、存在感を増していく新入社員のようだ。
「意志は重要ですが、世の中はそれほど甘くはありません(笑)。人間は、成り行きで生きているところのほうが大きいと思うんですね。例えば、“これをやりたい”と強い意志を持っていたとしても、会社や組織によって左右されるところが多分にある。ドラマの中でも、光秀はやや受け身で動いていきます。美濃の国の中で自分ができることをやる。とても現代的なリアリティーに満ちた主人公だと思っています」
たしかに、与えられた環境の中で、できることを精いっぱいこなすというのは、序盤とはいえ大河の主人公像として新鮮だ。また信長や秀吉に比べるとキャラクター像が確立されていない光秀だからこそ自由がきくところもある。過去、若い時代の光秀を演じた俳優は大河ドラマ『国盗り物語』('73年)の近藤正臣など数名。手つかずのキャンバスに、演技派・長谷川博己がどんな光秀カラーを描いていくのかにも注目が集まる。
「『シン・ゴジラ』もそうでしたが、長谷川さんには正義感や透明感を一直線的に出せる魅力があります。池端さんが気にしていたことのひとつに、若い時代の光秀の“病んでいなさ”があります。というのも、斎藤道三や織田信長など光秀の周りは病んでいる人たちばかりです(笑)。みな、戦のない世の中を実現したい。だけど、そのためには戦わなければいけない。そういった病んでいる時代感の中で、長谷川君だったら“病まない光秀”を演じることができると期待しています」
今回は、初回から最後まで長谷川博己が光秀を演じるとあって、幼少期時代の光秀を演じる子役は登場しない。少し寂しいところだが、「まだ竹千代(のちの徳川家康)を演じる岩田琉聖くんが登場しますので、お楽しみにしていただければ」と落合CP。