女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。女優になった経緯を語る─。
冨士眞奈美が女優になった経緯
どうして私は女優になったのか。そういえば、まだお話ししていなかったわね。実は、私は女優になる気なんてなかったの、全然。女優として仕事をするようになってからも、しばらくは女優と名乗ることに抵抗感を覚えていたくらい。「お芝居をする」「演じている」だなんておこがましくて恥ずかしかった。
私は、NHKのテレビドラマ『この瞳』(1956年)の主役に抜擢され、デビューする。他の審査員の方が反対する中、戦後新劇界の重鎮の内村直也先生が、「僕がこの子にあてて(脚本を)書くから」と主張してくださってのことだった。
私は、子どものころから音楽が好きだった。中学2年生のとき、佐藤先生という、新しい音楽教師が赴任した。もともと芸大を出て将来を嘱望されたテノール歌手だったにもかかわらず、アルコール依存症になりエリート街道から足を踏み外し流れ流れて、私の故郷の伊豆の田舎の村立中学校にやってきた方だった。
とても虚無的な人だった。先生なのにいつもお酒の臭いをプンプンさせて、授業といっても「星は光りぬ」(『トスカ』)などのオペラのアリアのレコードをただ朗々とかけるだけ。でも、当時は歌といえば、美空ひばりさんや藤山一郎さんといった流行歌が当たり前の時代。「こういう歌もあるんだ」。私は聴き入り、クラスメートが自由時間よろしく遊び始める中、オペラのレコードをかけるだけのその授業がいつも楽しみだった。
後年、私が女優になったとき、突然施療病院から電話がかかってきたことがあった。電話口の看護師さんは、「佐藤さんとおっしゃる方が結核で危篤の状態です。その方から、『冨士眞奈美さんによろしくお伝えください』と言伝てを預かりました」とお話しされた。あの佐藤先生だった。ずっと窓の外を見ていたと思っていた佐藤先生は、私を覚えていてくださったのだ。
オペラに魅了された私は、高校では芸大の声楽科出身の先生と巡り合い、さまざまなオペラのアリアの原語の譜面を貸していただいた。
私がNHKのオーディションを受けるとき、好きなことの欄に「オペラ」と書いた。それを見た審査員の先生が、「今歌える?」と尋ね、私は思い切って「ある晴れた日に」(『蝶々夫人』)を原語で歌った。その姿を見た内村先生が、「この子は面白い」と興味を覚えてくださったのだ。
佐藤先生がオペラのレコードをかけていなければ、今の私はなかったと思う。人生は、不思議な縁に導かれるものね。