目次
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ー 日本で生まれ育つも朝鮮半島がルーツの私
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ー 中学はチマチョゴリで登校

 

 “関内の歌姫”と名を馳せ、人気シンガー、クリスタル・ケイを女手ひとつで育てたシンシア(60)。本名は鄭舜慧(テイ・シュンケイ)。生まれは東京・羽田で、3人姉妹の長女として育った。

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「母の実家が羽田で金型の製作所を営んでいて、両親もそこで働いていました。私は大のおばあちゃん子で、小さいころは徒歩5分のところにある祖母の家でいつも過ごしていましたね。

 朝鮮で生まれた祖母は日本語があまり得意ではなく、私の中にある朝鮮文化はそこで培われたと思います。祖父母の代で朝鮮から日本に来たので、私は在日三世です」

日本で生まれ育つも朝鮮半島がルーツの私

「祖母は朝鮮にいたころ、顔も知らぬまま祖父と結婚をした。水道もない貧しい家で、水汲みが日課だったといいます。

 ある日突然、祖父が“日本で働く”と言っていなくなり、祖母は嫁ぎ先にひとり残された。そこで何年間かお手伝いさんのように扱われながら過ごし、その後、祖父を追いかけて日本にやってきたそうです

 祖父母が日本に渡ってきたのは1930年代。日本統治時代で、行き来が自由だった。朝鮮半島の南北分断より前のことで、母国といえば朝鮮であり、朝鮮民族の誇りを忘れず持ち続ける者もいた。

「38度線が引かれ、大韓民国ができたのは1948年。だから祖父母をはじめ、当時60万人いたといわれる在日同胞はみな朝鮮籍でした。自分たちは朝鮮民族であり、朝鮮が自分の国だと信じていた。けれど日本にいる間に韓国という国が誕生した。混乱の時代だったと思います。

 父方は反日派。法事で親戚の家に行き、“お水をください”と日本語で言ったら、“母国語で話しなさい”と叱られたことがありました。父方の祖父母は私が生後6か月のとき母国へ帰っていきました。父は当時明治大学の大学院に通っていたので、“勉強が終わったら帰ってきなさい”と言われていたようです。

 一方、母方は親日派。早々に日本になじみ、町内会のお祭りで着物を着て踊っていたくらい。戦後、羽田に借家を確保し、金型製作業を始めた。私が生まれたころは従業員が何十人もいて、私はそこのお嬢ちゃんとして育ちました」