今、お笑いの世界は大きく変化しつつある。女性芸人が多数登場し、女性が自らのアイデアで人を笑わせる、新しい時代となった。「女は笑いに向いてない」と言われた時代から、女性が人を笑わせる自由を手に入れるまで。フロンティアたちの軌跡と本音を描く。
レギュラー番組が週14本で女性タレントのトップに
山田邦子さんの第3回。29歳のときに始めた、初の冠番組『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』が成功し、好感度ナンバーワンも獲得。テレビの世界で、いわゆる「天下を取った」状態となる。しかし責任は増し、眠る暇もない。そして、人気番組は突然終了となり─。激動の30代の裏側に何があったのか。
1989年『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』は開始。邦子さんは若くして名前のついた冠番組を持つことになり、視聴率にも責任を負わなければいけない重い立場になった。
通称『やまかつ』のコンセプトは“おもちゃ箱をひっくり返したような番組”。得意のものまねのほかにも、ドラマ仕立てのコントなど。バンドを結成してオリジナル曲も作り、バラエティーに富んだ内容が毎週繰り広げられた。
「私がいろんなものまねをして、ひと画面に多数の人物として登場するという映像をよく作ってたんですけど。今ならCGを使って簡単に分身を作れますが、当時は何回も撮影して、それを重ねていくという方法しかなくて。これがとにかく時間がかかる。もちろん、他のコーナーの撮影や打ち合わせもありますから。
撮影終了が30時で、次の日の撮影は朝6時から、なんてスケジュールのときもありました。いつ寝るのって感じですよね。ただ、スタッフさんはもっと寝てないですから。頑張るしかない。いい作品を作ろうと、みっちり時間をかけて一緒に仕事していただいたことには、今振り返っても感謝しかないですね」
テレビ局で寝泊まりするほど、番組作りに没頭した。そのおかげで、『やまかつ』は明るく楽しめる番組になり、高い人気を獲得。邦子さん自身も、NHKが行っていた「好きなタレント調査」で、’88年の女性トップに。レギュラー番組が週14本にもなり、テレビで見ない日はないほどの売れっ子タレントになっていった。
「スケジュール的なことも大変でしたけど、前にやったものより、もっと面白いものを作らなきゃとハードルがどんどん上がっていくのがキツかった。ウケるのはうれしいけど、ウケた自分を絶えず越えていかなきゃいけない。何か面白いことはないか、どうやったら面白くなるか、ずっと考えるのが癖のようになってました。協力してくれる人はいても、常に孤独でしたね」
『やまかつ』からはヒット曲も多数生まれ、武道館でコンサートも成功させた。しかし’92年、人気が高い状態のまま番組は突然終了してしまう。
「番組に貢献してくれた人を、プロデューサーがさくっと切って降板させちゃう。そのことが引っかかりました。大江千里さんが音楽協力してくれたから番組が始まったのに、KANちゃんの『愛は勝つ』がヒットしたら、千ちゃんを切ってしまった。
千ちゃんは後で事情をわかってくれたけど、一瞬私のことが嫌いになったみたいで、つらかった。そして次は大事MANブラザーズバンドがヒットしたら、KANちゃんを切っちゃう。次、また次と繰り返されて、私は『もうこれは続けられない』と思ったんです」