生後1か月で失明するも、祖母の影響と持ち前の歌声を武器に“和製スティーヴィー・ワンダー”と呼ばれるなど、歌手として活躍する木下航志。ニューヨークでの日本人初パフォーマンスやパラリンピックのNHKテーマソングを担当して、音楽と共に人生を歩んできた。今年5月、10年ぶりとなるアルバムをリリースした彼に、これまでの苦難や家族やバンド仲間とのエピソード、そして音楽に関する展望を聞いた。
ミュージシャンとして生きていくことを決めたのは14歳
5月15日にCD『Alive and Well』を発売した木下航志。全盲のシンガー・ソングライターの木下にとって、10年ぶりとなるオリジナルアルバムである。
「木下さんは生後1か月で失明しましたが、その後、音楽に目覚めます。ピアノを弾くようになり、小学校低学年から路上ライブを始めました。テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられたことで注目を集め、'04年のアテネパラリンピックではNHK番組テーマソング『Challenger』を作曲。ニューヨークでライブを開催するなど世界でも高く評価されています」(音楽ライター)
ハンディキャップを抱えながら、どのように音楽の道を歩んできたのか。これまでの人生について聞くと、木下は笑顔で答えてくれた。
「鹿児島県薩摩川内市で生まれた時は、910グラム。未熟児網膜症で、生後1か月の時に失明。それまでは見えていたようですが、覚えていません(笑)」(本人、以下同)
木下が生まれた翌年に妹が誕生。赤ん坊の世話に忙しい母に代わって祖母が面倒を見ることが多く、おばあちゃん子に。
「おばあちゃんは今年92歳。そのころはよく『チューリップ』を歌っていました。昔から歌がうまいおばあちゃんで、その歌に合わせておもちゃのピアノを弾いていましたね。太鼓で遊ぶこともありましたが、ピアノのほうが好きで本格的に始めました」
8歳の時に初のストリートライブを経験する。
「小学校の先生が九州地方で放送された僕のドキュメンタリー番組を見て“ストリートに出てみないか”と提案してくれました。外に出て歌う度胸をつけることを教えてくれたんです。もちろん不安はありました。たしか最初は声が出なかったんです。
パニックになってしまって、ピアノでコードを弾きながらジャーンってやってるだけでした(笑)。でも、次第にお客さんが集まって、盛り上がっていたので“なんかいけるかも”となった記憶はあります」
自信をつけたことで音楽への思いはさらに強くなった。
「ミュージシャンとして生きていくことを決めたのは、14歳のころ。初のオリジナル曲『絆』を作りました。母への感謝を伝えるために作った曲で、同時に皆さんとの絆も込められている、今でもすごく大切にしている曲です」
“皆さん”というのは、ずっと一緒に音楽を作ってきたバンドメンバーのこと。
「人生の半分以上を共に過ごしてきた、ファミリーみたいな存在です。ベースの名村武さんから、コードの豊かさや音楽に向き合う姿勢を学びました」
音楽を目指すきっかけを作ってくれた祖母。音楽教室に連れていってくれた母。そして演奏の楽しさを分かち合う仲間たち。さまざまな“絆”のおかげで今の木下がある。
現在は充実した音楽生活を送る木下だが、思い悩むこともあった。
「歌詞が思いつかなくて眠れない時があります。夜中に音を出すわけにはいかないので、ヘッドホンをつけて“これがダメ、あれがダメ”と打開策を見つけています。締め切りが迫ってきて歌詞が出てこない時は、バンドのメンバーに助けてもらって、一緒に書いています」
やはり仲間の力が何よりも助けになる。時には好きなミュージシャンからインスピレーションをもらうことも。
「洋楽の歌詞からアイデアを出すことが多かったです。今まで覚えた洋楽は約70曲で、中でも参考にしたのはスティーヴィー・ワンダー。彼も全然寝なかったみたいです。夜中にバンドメンバーを起こして“曲作るぞ”って(笑)」