目次
Page 1
ー 小学校でいじめに遭い、教師を目指す
Page 2
ー 卵巣嚢腫で片方の卵巣を、がんで子宮を摘出
Page 3
ー 特別養子縁組で男の子を育てるママに
Page 4
ー 息子は発達障害がわかり高校で不登校に
Page 5
ー 子ども食堂でわかった親たちの再教育の必要性
Page 6
ー 落ち込むときはとことん落ち込んで、弱音を吐く
Page 7
ー 最後の晩餐を届けるおばさんになるのが夢

 東京・荒川区で「こども食堂サザンクロス」を運営している南谷素子さん。区内の不登校支援にも携わり、子どもたちを支えてきた。かつて週刊女性でも子ども食堂や不登校のリアルを南谷さんに語っていただいたところ、大きな反響があった。活動に賛同する全国の人たちから多くの寄付金も寄せられたという。

 問題を抱えた子どもたちと向き合うことは、親でさえ容易ではない。なぜ南谷さんは、子どもたちを支え、食事を提供する活動を続けるのか。それは30歳で子宮を失い、子どもを授かることができなくなった南谷さんの苦悩が原点となっていた。

小学校でいじめに遭い、教師を目指す

町工場を営んでいた両親のもと、ひとりっ子として生まれ育った
町工場を営んでいた両親のもと、ひとりっ子として生まれ育った

 1964年、南谷さんは東京・荒川区で塗装工場を営んでいた両親のもとに生まれた。住み込みで働いている職人が数人おり、母親が朝、昼、夜と職人の分も食事を用意していたことから、南谷さんも子どものころから料理を手伝っていたという。南谷さんが子ども食堂で大勢の料理を作ることができるのは、このときの経験が生かされている。

「両親は遅い時間まで働いていたので、夕食は夜9時を過ぎてから食べるのが日常でした。ひとりっ子だったので、両親の仕事が終わるのをひとりで待つのが慣れっこでした。だからか親の顔色をいつもうかがって、いい子でいようと努めていました。両親は中卒だったので、私に期待をかけて勉強には厳しかったです。当時は今ほどお受験が盛んではない時代でしたが、私は小学校のときから塾に通って、中学受験を目指していました」

 しかし、親の希望だけで私立中学を目指していたわけではない。南谷さん自身に地元の中学には行きたくない理由があったのだ。

「小学校5、6年生のときに同級生からいじめられていたのです。私はピアノが好きだったので合唱コンクールの伴奏者に選ばれたりしていたのですが、それが気に食わない女の子がいて。無視されたり、あげたお土産を窓から投げられたり、上履きを隠されたり……。教科書や机に落書きされるのも日常茶飯事でした。だから中学は私立に入って、いじめっ子たちから離れたかったのです。でも結局、私立は全部落ちてしまいました」

 地元の中学校に進学することになり、いじめが続くことが心配だったが、母親が学校の役員になって、いじめから守ってくれたという。

「学校の役員は先生と近い立場にあるので、私に困ったことがあれば、母が先生にすぐ抗議してくれました。私もそのころから自我が芽生え始め、母に頼ってばかりではいけないと思い、勉強も部活も頑張って、自分なりに自信を持つことができるようになりました。すると次第にいじめられることがなくなっていきました」

町工場を営んでいた両親のもと、ひとりっ子として生まれ育った
町工場を営んでいた両親のもと、ひとりっ子として生まれ育った

 南谷さんが「将来は教師になりたい」という夢を持ち始めたのもこのころだった。

「自分のように悩んでいる子どもたちを見守ってあげたい、相談に乗ってあげたいという、自分の経験から生まれた将来の夢です。もともと子どもが好きだからとか、かわいいからという理由ではなく、子どもたちの将来を支えてあげたいと思うようになりました」

 学ぶことが好きだった南谷さんは進学校に合格し、イキイキした高校生活を送ることができた。

「気が合う友達ができて、合唱部に入って部活を楽しみ、男の子に恋もして。青春を謳歌しすぎて勉強をしなくなり、現役では大学に入れなかったんです。一浪して、英文科に進学し、卒業後は高校の英語の非常勤講師として就職しました」

 子どものときからの夢を叶え、晴れて教師になった南谷さんだったが、教師の仕事は1年で辞めてしまった。

「私はもともと人前で話すのがすごく苦手で、教育実習のときから苦痛を感じていました。実際に教壇に立つようになっても、まったく慣れることができず、『私は教師に向いてないんだ』と悟りました」

学生時代に、同級生たちと
学生時代に、同級生たちと