目次
Page 1
ー 上皇后美智子さまとの散策
Page 2
ー 上皇さまが心配する過去の歴史
Page 3
ー 戦争の記憶

 

 秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまの祖父母にあたる上皇ご夫妻は今年5月28日、栃木県日光市を訪れ、上皇さまが敗戦前の1944年7月から約1年間、戦火を避けて疎開生活を送った旧日光田母沢御用邸跡の庭を散策した。上皇さまは疎開生活中に暮らした建物を指さしながら上皇后美智子さまに説明したという。過去、戦争の記憶が風化されつつある現状に警鐘を鳴らした上皇さま。孫世代に当たる佳子さまたちは、悲惨な戦争についてどう考え、祖父母たちの思いをどのように受け継いでいくのだろうか─。

 秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまの祖父母にあたる上皇ご夫妻は今年5月28日、栃木県日光市を訪れ、上皇さまが敗戦前の1944年7月から約1年間、戦火を避けて疎開生活を送った旧日光田母沢御用邸跡の庭を散策した。

上皇后美智子さまとの散策

日光田母沢御用邸記念公園の庭園を散策する上皇ご夫妻(2024年5月28日)
日光田母沢御用邸記念公園の庭園を散策する上皇ご夫妻(2024年5月28日)

 報道などによると、上皇さまは日光田母沢御用邸記念公園にある、疎開生活中に暮らした建物を指さしながら「あそこで勉強したわけ」と、上皇后美智子さまに説明した。2001年に植樹したイチイの木の前で足を止め、「ずいぶん伸びているね」と、感想を述べた。

 上皇さまは、学習院初等科5年生だった1944年5月、静岡県沼津市に疎開したが、7月、サイパン島が米軍の手に落ち、敗色が濃くなると、一度、東京に戻った。そして、同じ7月に今度は日光田母沢御用邸に再疎開した。翌1945年7月、戦況悪化に伴い、奥日光の旧南間ホテルに移り、そこで終戦を迎えた。

《おもうさま(昭和天皇)日々、大そうご心配遊ばしましたが、残念なことでしたが、これで日本は永遠に救われたのです》《わざわいを福にかへてりっぱな国家をつくりあげなければなりません》

 以前、この連載で、1945年8月末、疎開先にいた上皇さま(当時、皇太子さま)に宛てた母、香淳皇后の前述の手紙を紹介したが、それは奥日光の旧南間ホテルでの疎開生活時代のことだった。当時、上皇さまは学習院初等科6年生で、この年の11月に東京に戻った。

 1975年8月、上皇さまは記者会見で戦後30年を迎えた感想を次のように答えている。

《あの当時言われたことをもう一度、かみしめたい。習字でも『平和、文化』と書きましたね。日光の疎開先でB29を見ました。
(略)はっきりしているのは、日光から原宿の駅に降りたとき、あたりが何もなかったのでびっくりしたのは事実です。戦争の体験を次の世代に伝えるのは難しく、皆で考えていくことだ》
(『新天皇家の自画像』文春文庫)

 上皇さまは、これまでの歩みの中で、「戦争を二度と繰り返してはいけない」と、事あるごとに訴え続けてきた。米軍のB29爆撃機の空襲で、焦土と化した東京の街の惨状を見た際に感じた「あたりが何もなかったのでびっくりした」という衝撃と不自由な疎開体験が、日本や世界の平和を強く望む上皇さまの「原点」といえる。