目次
Page 1
ー 父親の事業失敗で“稼ぎ頭”に
Page 2
ー 始まった“台本のない夫婦の物語”
Page 3
ー 吉永の母親が書いた“恨み節”
Page 4
ー 夫の他界の3日後、現場に姿を見せた

 

 9月上旬の夕方、仕事を終えた吉永小百合は、駆け込むように車に乗り込んだ─。

 吉永の夫で、元共同テレビの会長だった岡田太郎さんが9月3日、胆のうがんのため亡くなった。94歳だった。

「岡田さんは、当時あった政府の機関である総理府に勤めた後、ラジオ局に転職します。その後、フジテレビへと籍を移し、ドラマプロデューサーとして活躍します。まだ自由に映像を切り貼りして編集できない時代に、役者の顔を交互にアップにして臨場感を出す撮影手法を駆使したり、不倫をテーマにした刺激的なドラマを放送するなどして、主婦層が貪るように見る“昼ドラ”を定着させた人でした」(スポーツ紙記者)

 敏腕プロデューサーだった岡田さんが、ドラマの制作現場で吉永と知り合ったのは、1964年のこと。ただ、当時19歳だった吉永は、別の男性と恋をしていた。ベテランの芸能ライターが振り返る。

「吉永さんは、結婚も視野に入れて渡哲也さんと交際していたといわれています。しかし、彼女が24歳のとき、この恋は終わりを迎えます。吉永さんは破局理由についてインタビューで“築いた地位を捨てられなかった”と語っていますが、背景にあった本当の障壁は“吉永家”だったんですよ」

父親の事業失敗で“稼ぎ頭”に

 吉永の父親は東大卒の官僚だったが、退職して事業を起こすも失敗。家計を支えていたのは、母親が開いていたピアノ教室で得る、わずかな収入だけだった。

「そこに吉永さんが小学生で子役として芸能界入りし、スターへと駆け上がった。吉永さんのマネージメントは両親が一手に担っており、結婚して子どもができれば家庭に入ることになる。そのため吉永家の稼ぎ頭であった娘を、両親は手放さなかったのです」(芸能ライター、以下同)