ジャニーズ事務所との契約更新の意志が問われた6月、中居正広ら元メンバーがそれぞれ進退を表明。木村拓哉を除く4人が結束を固めていたと思われたが、ふたを開けてみればSMAP“再分裂”という、なんとも後味の悪い結果になってしまった。

「彼らの絆は、見せしめとなった昨年1月の『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の生謝罪ですでに壊れていたのでしょう。

 25年以上をともにした“チーム”が、たった数か月で解散の道を選んだのですから。中居のジャニーズ残留に対しても、香取(慎吾)ら3人はとくに驚くことはなかったと思いますよ」(芸能リポーター)

 彼らを取り巻いた様々な外的要因があったにしても解散、そして残留と独立を決めたのは元メンバー自身。しかし一方で、そのあおりを受けて強制的に“解散させられた”もう一つの「チームSMAP」があったことは、あまり知られていない――。

 '91年9月9日、『Can't Stop!!-LOVING-』でCDデビューしたSMAP。チャートはまさかの2位発進で、その後も'94年3月の『Hey Hey おおきに毎度あり』をリリースするまで1位をとることができなかった。

 それでも泥にまみれてもがき続けて、ついに国民的アイドルにまで上り詰めたSMAP。そんな彼らを見放すことなく、常にバックアップしてきたのがレコード会社の『ビクターエンタテイメント』だ。

同社にはSMAPのCDやコンサート、イベントを手掛ける専属チーム、通称『Sルーム』と呼ばれる部署がありました。25年という歴史ですから入れ替えこそありましたが、随時10数名の少数精鋭が奔走していたのです。

 プロデューサーらはI元マネージャーと、曲作りやコンサート演出など戦略を練って会議室にこもる日々。いわばSMAPの“心臓”と言っても過言ではないチームなのです」(芸能プロ関係者)

 また元メンバーにとってもビクターは“帰る場所”になっていたという。

SMAPは結成時、もともとジャニーズ内でも“落ちこぼれ”と見られていて、事務所にはメンバーの居場所はありませんでした。それで彼らが集まるのはいつも、ビクターのスタジオだったというわけです。とくに本社が移転する前の青山スタジオは6人にとって思い出深い場所だったようです」(音楽雑誌編集者)