ケガと病気のデパート
冒頭に、今年1月の事故のエピソードをお伝えしたように、桂子さんは80歳を境に次々とケガや病気に見舞われている。それまでは、医者とは無縁の人生。健康保険証を使ったことがないのが自慢だった。
「そりゃあ風邪だってひいたし、気分のよくないことだってあった。けど、子どものころはお医者さんにかかるような贅沢(ぜいたく)は許されなかったし、芸人になってからは舞台に穴をあけてはいけないというのが一番だったからね」
ところが83歳になって、初めて骨折という憂き目にあう。これが桂子さんの厄災の幕開けとなった。
’05年2月19日。この日、桂子さんは、神奈川県横須賀市の社会福祉法人からの依頼で仕事に出かけた。そして、東京駅でのこと。JR山手線から横須賀線に乗り換えで降りたホーム階段の途中で、足を踏みはずして33段転げ落ちてしまったのだ。
転落を阻止しようと踊り場で右手をついたその瞬間、全体重がかかった右手首の中で、「グシャッ」と何かがつぶれる感覚がして激痛が走った。
駆け寄ってきた成田さんに、桂子さんは「手がブラブラしている」と訴えた。真っ先に考えたのは「仕事」のこと。これまで、どんなことがあっても1度も仕事や高座を休むことはなかったが、このときばかりは仕事をキャンセル。救急車を呼び、以前足を捻(ひね)ったときに受診した東京駅から近い聖路加国際病院へ。この病院は、その数年前に道路の凹(へこ)みに草履を取られて足を捻ったときにお世話になっていた。このときの診察券を持っていたのが功を奏し診察を受けられたのだ。レントゲンを撮ると案の定の右手首骨折。整形外科の当直医からはギプスをすることを提案されたが、それでは何か月も三味線を弾くことができないので拒否。
手術後は、早く三味線を弾けるようになりたいという一心で、つらいリハビリも頑張った。金属のプレートをいくつも埋め込んでいるため痛みが強かったが、鎮痛剤は一切飲まなかった。また、用意された車イスも断った。
「内海桂子が車イスに乗っていた」などと言われたら、芸人生活はオシマイだと思ったからだ。
手術から約1週間で退院へ。
余談だが、キャンセルした横須賀市の仕事には、まだ駆け出しだったナイツの2人を先に差し向けていた。「桂子師匠の一大事」に2人は急きょ舞台を務め無事、大きな同情の拍手をいただいたのだった。ナイツの土屋伸之さんがその当時の気持ちを話してくれた。
「何をやったのか、全く記憶にないんですよ。普通なら師匠のケガのことを心配するはずなのに、自分らのことで頭がいっぱいでした(笑)。もちろん、僕らにとってはいい経験になりましたけどね」
その後、’07年には乳がんが発覚し切除。同時期に、右足の大腿骨転子部骨折になるも、入院も手術もせずに自己流リハビリで回復。さらに、そもそも右目がほとんど見えなかったのだが’11年、左目に白内障が発覚。悩んだ末に手術し事なきを得た。
同じ年の8月、今度は肺炎。それも国立演芸場での連続5日間公演の真っ最中だった。このときの桂子さんのレントゲン写真は、両方の肺が炎症で真っ白。死に至っても不思議ではない値だったが、「薬を飲んでくれるまで動かない」という看護師に根負けし、しかたなく薬を全部飲んだ。すると、みるみるうちに症状がよくなり、1週間後には、真っ白だった肺が、正常に戻ったのだ。