鉄棒少年、オリンピックを目指す!
森末は1957年、岡山県岡山市に生まれた。子どものころはガキ大将だった。悪さをして父親に殴られたことは1度や2度ではなかった。
体操に目覚めたきっかけは、小学生のときにテレビで見た鉄棒の技「大車輪」。「すごくカッコよかったので、まねしてみたらできた」というからすでに才能の萌芽はあったのだろう。中学までは体操部がないため、もっぱら校庭の鉄棒で遊んでいた。
そのころ、すでに独学で“降り技”を身につけていたというからすごい。
とにかく鉄棒が大好きで、目立つことが楽しかった。母親からは、「そんなに好きならオリンピックに出たら目立てるよ」と言われ、森末少年はオリンピック出場を夢見るようになる。
本格的に体操を始めたのは、岡山の関西(かんぜい)高校に進んでからだった。強豪校の体操部の練習は、ついていくのがやっとだった。
「休みは元日だけ。364日は練習の日々ですよ。それでもやめなかったのは、やめたら、大好きな鉄棒ができなくなるからだったんです」
しかし、オリンピックの夢は早々に打ち砕かれる。
雲の上の存在に思えた憧れの体操部の先輩が、全国レベルでは無名の選手だと知ったときだった。
「これは俺なんか、とてもオリンピックには出られない」と思ったのだが、まだ夢は捨てきれなかった。
先輩のひと言で真の体操人生スタート
大学は日本体育大学(日体大)へ、特待生として入学。ところが、高校の猛練習の毎日に比べあまりに自由な大学生活から、森末は練習よりパチンコに熱中してしまう。
「そもそも日体大体操部の練習は、個々の自主性に任されているんです。一般的な部活のような全員参加ではなくて、練習したい人だけが、練習をする。つまり、サボろうと思えば、いくらでもサボることができる。言い換えると、自分で自分を厳しく律することができる者だけが、生き残れる世界なんですね」
実際、高校時代に好成績を残した選手が潰れていくことも少なくなかったのだ。
「僕ら中学では、跳び箱とマットと鉄棒しかやれないわけです。で、高校に入って初めて6種目になる。それでも高校は高校のレベルでしかありませんからね。大学に入って初めてオリンピックと同じ規定演技をやれるんです」
毎日パチンコばかりの森末だったが、誰からも文句は言われなかった。しかし唯一、「お前、何やってんだ!」と怒ってくれた人がいた。それは、2年先に日体大に進学していた、高校時代のあの憧れの先輩だった。
「そうか。このままじゃダメだ。よし、やってやろう」
森末の本格的な体操人生は、ここからスタートしたのだ。
競技としての体操に取り組むうちに、彼は徐々に頭角を現していく。
しかし、苦難も待ち構えていた。大学3年のとき、左アキレス腱断裂という大きな試練。そして、それが治ったと思ったら、今度は4年生で右アキレス腱断裂。絶望の淵に突き落とされた心境だった。そんなとき、監督が見舞いに来て、笑いながらこう言った。
「これで両足が同じになった。また普通に練習できるぞ!」
左が治ったのだから、右足だって治る。治ったら両方のバランスがとれるんじゃないか。そんなメチャクチャな理屈だったが、そのときの彼には大きな励ましになったという。