栄光の3色のメダル獲得へ
1980年、森末は日体大を卒業し、紀陽銀行へ入社。当時、紀陽銀行の体操部には、日本トップレベルの選手が多数所属、森末もその一員になったのだ。
それでも、この時点ではオリンピックはまだ遠い夢でしかなかった。ところが、そこに想像もしなかったチャンスが巡ってきた。
’80年といえば、モスクワ五輪が開催された年である。しかし、このオリンピックは日本を含む西側諸国が一斉にボイコット。それによって、森末の上の世代──「体操ニッポン」と呼ばれた時代をつくった名選手たちが、そろって引退したのである。それまで日本で20番目ぐらいの選手だった森末が、いっきに上位に躍り出たわけだ。また、演技の規定が変わり、多彩な技ができるようになったことも、追い風になった。
そして、’83年、ブダペストでの世界選手権で4位を獲得。このとき初めてオリンピックの夢が、目標に変わった。翌’84年、いよいよロサンゼルス五輪。森末は見事、その日本代表の座を手に入れたのだった。
「代表が決まるのが6月ぐらいで、オリンピックが8月、そんな短期間ではレベルアップなんて無理ですから、とにかくケガをしないように気をつけて、いかに失敗しないかという調整をしていました」
’84年8月、オリンピックが始まると、森末は絶好調だった。団体の規定で10点満点、さらに自由の鉄棒で降り技に3回宙返りに挑戦し、着地も決まり見事10点満点、持ち点トップで、種目別決勝を前に、金メダルが見えてきていた。ところが、種目別決勝の3日前、急激なプレッシャーのせいか森末は原因不明の39度の高熱にうなされてしまう。夏だというのに寒さで震え、食事もほとんど食べられない。それまでの体操人生でも初めての体験だった。
ひとり宿舎で横になりながら、何度も着地が「ピタリ」と決まる姿を思い浮かべながら過ごした。
そんな中で、森末はさらに悶々と悩んでいた。
森末とともにロス五輪の体操日本代表の具志堅幸司さんが当時を語る。具志堅さんは、ロスでは、個人総合、吊り輪で2つの金メダル、跳馬で銀、鉄棒と男子総合で銅メダルを獲得している。
「森末君は、鉄棒の降り技を3回宙返りにするか、伸身2回宙返りを使うかでずいぶん考えていました。着地のことだけを考えると、3回宙返りよりは伸身2回宙返りのほうが決まりやすい。しかし、森末といえば3回宙返りのイメージが強く、世界中のファンも3回宙返りを望んでいたはずです。ちなみに、3回宙返りも伸身2回宙返りもともに当時C難度で、最高難度でした。
結局、森末君は着地を最優先に考え、伸身2回宙返りを選びました。大変勇気のいる選択だったし、結果的には金メダルにつながったのだから、素晴らしい判断でしたね。そのことはいまだに忘れられませんね」
不思議なことに、金メダルが決まった瞬間、熱はすっかり下がっていたという。そして跳馬で銀メダル、団体でも銅メダルを手にしたのだった。
「実は、団体は王者中国に続いての銀メダル狙いだったんですが、地元の米国が急浮上してきて金メダルを獲得してしまった。でも、ひとつの大会で3色のメダルをそろえることができて、今ではよかったと思ってるんだけどね」
具志堅さんは、森末が代表に選ばれたのは、得意の分野を広げたからと分析する。
「彼の得意な種目は、平行棒と鉄棒でした。今でも平行棒には『モリスエ』という名前が採点規則にあり、現在でも多くの選手によって使われている技です。彼は本当に“楽しく”体操をやっていました。私は、それがとても羨ましかったですね」