芸能界で会いたかったあの人
ロス五輪を終えた森末は、翌年28歳で現役を引退した。
「もう、オリンピックが終わった次の日にはやめたかったですね。僕は小学校3年のときに鉄棒をやりだして、大車輪ができるようになって、高校で体操競技に入り、“オリンピックに行きたい”という夢を持ち、27歳でオリンピックに出場してメダルを手にした。ここで完結なんです。何か新しいことを一から始めないと面白くないと思い、芸能界に飛び込んだんです」
子どものころからの目立ちたがり屋にとって、芸能界は体操の世界とは全く違う興味津々の世界だった。
ロス五輪で注目されたこともあって、陽気で気さくな森末は、芸能界でも引っ張りダコの存在となった。ニュース番組のキャスター、バラエティー番組、旅番組、ラジオの冠番組……。CMも数多く出演した。中でも「くらし安心・クラシアン」のCMは14年続き、現在もキャラクターとして広告に登場している。
「芸能界に入りたかった理由のひとつは、会いたい人がいたからなんです。それが桂枝雀師匠でした」
現役時代、森末を悩ませていたのが不眠だった。
それを解消してくれたのが、上方落語界を代表する人気落語家、桂枝雀さんの落語のテープだったのだ。
「枕元にラジカセを置いてテープをセットして、枝雀師匠の落語を聴きながら横になるとスーッと眠れるんです。ロス五輪でもそうやって眠ることができたんですね」
きっかけは、日体大を卒業し、紀陽銀行に入りたてのころ、大学体操部の同級生の下宿で聴いた落語のレコードだった。
「枝雀師匠の『鷺とり』という噺(はなし)でした。これが抜群に面白かった。マクラがすごく楽しくてネタになっても楽しい。“わー、こんな面白い人がいるんだ”と思って、枝雀さんのテープを集めるようになったんです」
関西圏に近い岡山出身の森末は、落語より吉本新喜劇や漫才に親しんで育った。だから、この出会いは新鮮だった。
「枝雀師匠の落語を生で聴いたのは、芸能界に入ってから。’87年に枝雀師匠が東京・歌舞伎座で3日連続独演会を開いたとき、自分で前売りチケットを買って行きました。もう感激して涙が出ましたね」
さらに’88年、森末は直接、枝雀さんと会う機会を得た。
「師匠が司会を務めていた大阪のお笑い番組『枝雀寄席』(朝日放送)に呼ばれ、対談させていただいたんです。本番前、控室に挨拶に行って熱い思いを伝えました。でも、師匠はそのころ、すでにうつっぽくなっていたのかもしれませんね。“そう言われましても、ワタシ、そういうことは気にしないほうですからねぇ”とそっけないんですよ」
番組本番では無事に対談を終えたが、ロス五輪の映像が流れた途端、森末は一気に感情があふれ出し号泣した。
「もう、何にもしゃべれなくなっちゃって、そしたら師匠が“そんなにワタシの落語は悲しいですか?”とボケてくれたんです(笑)」
落語家の金原亭世之介さん(59)とは、森末がMCを務めるラジオ番組で知り合い、親しく付き合う仲である。世之介さんの独演会のゲストとして呼ばれるようになり、そしてあるとき、なんと自ら落語に挑戦することになった。
「高座名は『金メダル亭慎二』(笑)。そのときは枝雀師匠の『まんじゅうこわい』をまるまるやりました。そう、関西弁でね。マクラは標準語だけど、ネタに入ったら関西弁。だいぶ緊張してしまってお客さんにまるでウケない(笑)。もう2度とやるまいとも思ったんだけど、自分でも納得できなくて、世之介さんに“もう一度やらせてくれ”と頼んだんです」
そして今度は、枝雀さんの『親子酒』に挑戦する。舞台は国立演芸場である。
「そしたらドカンドカンとウケたんです。気持ちよかった。そこから調子に乗って、志の輔さんの『死神』や『親の顔』などもやるようになっていきました」
さて、森末と枝雀さんの話には後日談がある。
「1度、僕が『親子酒』をやっているビデオを師匠に送ったことがあるんです。そしたら人伝(ひとづ)てに、“ひと言、いいたいことがある”と師匠がおっしゃっていると聞いた。そりゃ感激ですよ。それなら師匠に稽古をつけてもらおうかとアポイントもないまま、住所を頼りに世之介さんと2人で新幹線に乗り、大阪の師匠の家を訪ねたんです」
しかし、うつ病を患っていた枝雀さんは人に会えるような状態ではなかったらしい。
「僕らは師匠の家を近所の公園から見ていたんです。階段を上がったりする師匠の姿は見えるのに、電話をかけても出てくれない。2月の凍えるような寒さの中で、2人で4時間待ったんですが、結局あきらめて帰りました」
枝雀さんの自殺未遂のニュースを聞いたのは、それから2週間後のことだった。
枝雀さんは森末に何を言いたかったのか。それは、結局わからずじまいだった。