自分が変わると世界が変わった
転機は、かのこさんが5歳のときに訪れた。
朝6時に家を出て2時間かけて京都の病院にリハビリに通う途中、楽しげな家族連れが乗る車を見て、無意識につぶやいていた。
「お母さんもね、あんたが生まれてくるまでは、あんなふうに幸せやったのよ。あんたさえ、おらへんかったら……」
自分で自分の言葉に気がつき、ハッとした。
「あー! 私、自分はものすごい不幸だと思っているわ。オバチャンの“あんたが変わらなあかん”という言葉の意味がストーンとわかりました。本当にその瞬間なんです。寝たきりで何が悪いねん。歩けなくても、世界一、幸せにしようと思えたのは」
自分が変わったら、取り巻く世界が音を立てて動き出したような気がしたという。
脇谷さんは、それまで全精力を注いで続けてきた、歩くための週3回のリハビリをやめた。命を維持する週1回のリハビリに切り替え、時間にも気持ちにも余裕ができ、作家になる夢を思い出した。
かのこさんのベッドの横にアイロン台を置き、机がわりにして童話を書き始めた。小学生の正嗣さんに感想を聞いては書き直す。完成した『とべ!パクチビクロ』が出版社の目にとまり、36歳で作家デビューした。童話を書き続け、’08年からは毎日新聞大阪版に日常を明るくつづるエッセイの連載をしている。
大分の母がうつ病になったと電話が来たとき、脇谷さんは42歳。すっかりたくましいオカンになっていた。
「私だって、その瞬間は驚くんやで。エー、どないしよと思うけど、いやいやいや、すぐ対策を考えましょうとなる。もう、絶望しない体質になってますねぇ(笑)」
娘の葉書で元気を取り戻した母のマスさん(90)。今は同じ団地の隣の部屋で暮らしている。当時、どんな気持ちで葉書を読んでいたのか、聞いてみた。
「1枚の葉書が1日中、効き目がありました。スケッチブックを買って葉書を貼り、暗記するくらい何回も読み直しては笑っていました。娘の書いてくることが新鮮で、考えもしなかった面白さがこの世にあることがわかって、明日が待ち遠しかったです」
うつ病が治るとマスさんは「私はもっと面白いものが書けるわ」と言い出し、自叙伝を出版してしまった。
周囲の助けを借りることが大切
理学療法士の吉田聖代さん(41)との出会いは、脇谷さんだけでなく、かのこさんにも大きな変化をもたらした。吉田さんのリハビリのおかげで、かのこさんが26歳のとき意思の疎通ができるようになったのだ。
だが、吉田さんに聞くと、担当し始めた当初は脇谷さんとかなりぶつかったそうだ。
「かのちゃんは重度のなかの重度やったんで、お母さんは“そんなん無理無理”という感じで。でも、私は重度の障がいがあっても感情のない人はいないと思っていたので、手にボールを握らせるところからスタートして、7年かかりました。自分の意思が伝えられるようになって、かのちゃんは円形脱毛症が治ったんですよ」
かのこさんに質問をし手をギュッと握ったら、ハイという返事。イイエのときは握らない。これまで何がいちばん苦しかったかと聞いたら、けいれん発作や肺炎で死にかけたことではなく、自分の意思を伝えられなかったことだと答えた。こうした体験を経て、脇谷さんは周りの人の助けを借りる大切さを痛感した。
「なんでもそうですが、ひとりだけで抱え込まずにたくさん仲間をつくることが大切なんです。かのこは週3回、施設に通っていますが、今日は行かない日なのでヘルパーさんが2人来てお風呂に入れてくれます。いつもヘルパーさんとは、お友達みたいに何でも話しているんですよ。“お母さんがいつ死んでも、かのこちゃんが誰にでも世話してもらえるようにしておくのが愛情ですよ”と言われて、そのとおりやねと思いました」