子どものころ、発達障害であることが理解されず、保育園や学校からの風当たりが強いことも多かったと振り返るモデル・栗原類さん。そんな栗原さんを救ったのは、どんな状況下にあっても常に自分のために闘ってくれた母の存在であったという。
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注意欠如障害の中でも多動や衝動性は目立たず、不注意の症状が顕著なADDと診断されたのは8歳のとき、当時住んでいたNYでだった。語学を含め、物事の習得が遅いと小学校の担任から指摘され、検査をすすめられて判明した。
「自分の障害を認識したのは、ピクサーのアニメ映画『ファインディング・ニモ』がきっかけです。なんでも忘れてしまうドリーというキャラクターがいるのですが、僕が“ドリーってすごくおかしくておもしろいね”と言ったら、母が“アナタもそうだよ”と。母はドリーの特徴と僕の特徴を比較して、細かく話してくれました」
そのとき、少しショックを受けた類少年だが、母が周囲の無理解を決して放置せず守ってくれたのが助けとなった。
「日本の保育園に通っているとき、僕は物音に敏感なため、子どもたちの怒鳴るような歌声がダメで飛び出したことがありました。先生方には“情緒がない子”“耳がおかしい”と言われましたが、医師に“誰だって怒鳴るような歌声は不愉快。この子の耳は何も異常がない”と言われたこともあり、母は“医師も言っていました、この子の耳は何も問題がないそうです”と言い返してくれたんです。
同じく日本の学校で、担任に“類くんだけが自分の名前を漢字で書けない”とも言われましたが、“でも自分の名前を全部、英語で書けるのも類だけですよね?”と、言ってくれたことを覚えています」
ADDと判明後、「自分ができないことを責めないで」と言ってくれた母は、どんなに学校からの風当たりが強くても一切、息子を責めなかった。
「僕の個人的意見ですが、親がいかに学校側に負けないで闘うかは大事。先生が親を責めて、そこで親が謝ったりしたら、先生も“親が謝っているということは、子どもにも同じくらいのプレッシャーを与えてもいいのだ”と錯覚してしまうかもしれない。子どもは追い込まれ、いい未来を歩めなくなるかもしれません。僕は闘ってくれた母に、とても感謝しています」
どんな子どもでも学べる機会を!
23歳になった今でも、苦手なこと、できないこともある。しかし、最新テクノロジーと母の助けで、対処する方法は複数、体得している。
「文字を書くことが苦手です。でも昔からパソコンを使っていたので、キーボードのタイピングは得意。舞台のダメ出しなどは、キーボードで入力してメモを残すようにしています。
また記憶力が弱く、ついさっき聞いた内容でも脳を素通りしてしまう感覚がある。大切な締め切りはスマホに記録し、アラームをつけて忘れないようにしています。こうやって弱点を補えるようになったのは、テクノロジーの進化のおかげ」
自分の感情の表現、他人の感情の理解が不得意なことは大きな課題と話す。
「昔は他人を観察する力と、他人への興味が弱かったと思います。人の表情から感情を読み取るのが苦手で、どういう表情をしていいかわからない。お芝居をしていても、どう演じていいかわかりませんでした」
悩んだ末にたどり着いたのが、“読解力”。
「読書で筆者の伝えたいことを読み取り、描かれている世界を細かく想像する。ドラマや映画を見て気になる動きや表情を一時停止し、“この表情は何を表しているか”を考え、母の説明を聞いて理解し覚える。日常的にこんな訓練を繰り返しているのですが、コミュニケーション能力の向上はもちろん、俳優の仕事にもおおいに役立っています」
発達障害のある子どもがより生きやすくなるには、何が必要だろうか?
「目が悪ければメガネやコンタクト、耳が悪ければ補聴器を使います。“道具を使ってズルい”などとは誰も言いません。でもこれが“字の読み書きが苦手だから、タブレットを使いたい”だと、とたんに拒まれてしまう。電子ツールを使うことで、やっとスタートラインに立てる子たちがいる。
特別扱いしてほしいんじゃないんです。みんなと同じように学習できる機会を与えてほしい。そう学校だけでなく会社でも認められれば、たくさんの人が生きやすくなると思います」
<プロフィール>
栗原類◎モデル。17歳で“ネガティブタレント”としてブレイク。パリコレのショーモデルなどを経て、現在モデル、タレント、役者として活躍。著書に『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』(KADOKAWA)、『ネガティブですが、なにか?』(扶桑社)などがある。