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「両親の話もするんですか?ちょっと待っててください」

 東京・港区の自宅リビング。

 入江さんはそう言い置くと、別の部屋から風のように2つの写真立てを持ってきた。

「こちらが父。豪放磊落(らいらく)で、ちょっと遊び人、なんて言ったら怒られちゃうかな(笑)。母は、見てのとおり、まじめな人でした」

 1957年、東京・品川区旗の台で生まれた。不動産業を営む父親は、仕事柄、浮き沈みが激しく、しっかり者の母親が、家庭を守っていたという。

 2つ違いの妹・泰子さんとは、2人きりの姉妹で幼いころから、それは仲がよかった。

「子ども時代は、路地裏で遊んだり、年ごろになってからは、恋の話も打ち明け合ったり。やっちゃん(泰子さん)は私にとって、誰よりも心を許せる存在でした」

ほっぺにチューでもわかるよう、入江さんと泰子さんは、幼いころからそれは仲のいい姉妹だった。写真は入江さん7歳(写真右)、泰子さん5歳の七五三のとき
ほっぺにチューでもわかるよう、入江さんと泰子さんは、幼いころからそれは仲のいい姉妹だった。写真は入江さん7歳(写真右)、泰子さん5歳の七五三のとき
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 小学校から高校まで、入江さんは私立の一貫校に通い、泰子さんは地元の公立学校に通った。

 姉妹で進路が違ったのは、「父の羽振りのいい時期が、たまたま私の学校の節目に重なっただけ」と笑う。

「だから、妹が高校受験のときは、勉強を見てあげたりと、できる限り応援しました。父の仕事がうまくいかず、家が大変だった時期も、やっちゃんがいれば心細くなかったし、たぶん、妹も同じだったと思います」

 絆の深さは、唯一無二。

 名門、国際基督教大学を卒業して間もなく結婚したのも、「やっちゃんの言葉が決め手でした」と言うほどだ。

「夫を自宅に初めて招いたとき、妹が“お姉ちゃま、わかってる? あの人、とってもいい人よ。あの人を逃したら、一生後悔するよ!”って、すごい勢いで。当時、末期がんを患う父を安心させたい気持ちと、仕事で自活したい気持ちがせめぎ合っていましたが、妹の言葉で迷いが吹っ切れました」

 こうして、24歳のときに、大手自動車会社にエンジニアとして勤務する、8つ年上の夫・博行さんと結婚。

 父親にも、晴れ姿を見せることができた。

 結婚から6年後には、待望の長男が誕生。同じころ、泰子さんも、会社員のみきおさんと結婚し、家族ぐるみの付き合いが始まった。

 そんな両家が、寄り添うように建つ二世帯住宅に引っ越したのは、1991年のことだ。

「妹と相談して、決めたんです。2つの家族が“支え合う仕組み”を作ろうって」

 当時、夫の独立・起業にともない、入江さん一家はイギリスに生活の拠点を移すことになっていた。

「父に先立たれた母をひとり残すのが心配でしたが、母が私たちの家に暮らし、隣に妹夫婦が住んでくれたら安心だと。私たちも、日本と行き来するつもりだったので、妹たちと暮らせることを、楽しみにしていました」

 宮澤家に、にいなちゃん、礼くんが生まれてからは、帰国のたび、両家8人の大家族が、にぎやかに食卓を囲んだ。

二世帯住宅に暮らす両家は、入江さん一家がイギリスから戻ってくるたび、大家族のように食卓を囲むのが常だった。写真は事件が起きる2年前の正月元日
二世帯住宅に暮らす両家は、入江さん一家がイギリスから戻ってくるたび、大家族のように食卓を囲むのが常だった。写真は事件が起きる2年前の正月元日

 泰子さんが学習塾を開く際は、入江さん一家のリビングを教室として提供。二世帯住宅は、当初の予定どおり、2つの家族が『支え合う』舞台となっていた。

 あの事件に巻き込まれるまでは──。