さらに、どの親たちも一生懸命子育てをしていた時期があった。
武豊の事件では、長女は生後10か月の時、夫に激しく揺すぶられて硬膜下血腫を起こし、37日間入院している。この時19歳だった母親は、たった一人で病院に泊まり込み、付き添いをした。当時彼女は妊娠していたが、家計簿をつけ、4人家族になっても夫の手取り13万円の収入で生活ができるか計算している。子どものケアを担う役割を果たそうと一生懸命だったのだ。彼女が子育ての意欲を失っていくのは、子どもの発達の遅れがわかり、夫の関心が仕事と職場の仲間との交流に移り、家族への関わりが希薄になってからだった。
大阪事件の母親は20歳で結婚して、専業主婦として子どもを育てていた。この時期には、夫の弁当を作り、地域の育児支援のメニューを全て使っていた。だが彼女の浮気が理由で離婚してからは、公的支援を使っていない。親族からの支援を受けず、2人の子どもを連れてキャバクラで働いた。半年後には風俗店に変わる。子どもを亡くしたのは、さらにその半年後だった。
ケアをする役割と収入を得る役割を果たそうとして、力尽きている。
厚木事件の母親は、18歳で出産したが、1歳半検診まではママ友と一緒に予防接種も受け、検診にもきちんと通っている。このころ、夫が正社員のトラック運転手になる。トラック運転手は厚生労働大臣告示により、月に293時間の拘束が認められている。夫は職場ではAランクの評価を受けていた。トラック運転手はその働き方を変えず、妻が出て行ったことを誰にも告げず、ケアを担わない妻に激しい怒りを募らせつつ、たった一人で子育てをした。実母は精神疾患を抱えており、実家は頼れないと考えていた。公的支援については、早朝から勤務もあるので、保育園は難しいと考えた。児童相談所の存在は知らず、市町村に子育て相談をすることも思いつかなかった。
トラック運転手は法廷で「困っていたことは、子育てと仕事の両立だった」と繰り返し語った。だが、法廷でその言葉が十分に受け止められることはなかったように思う。
子どもを亡くしてしまった3つの事件の親たちは、社会に働きかけて、自分の状況を改善する力が乏しかった。子育ては自分一人が担うべき責任だと思い、その役割を果たそうとして、力尽きていたのだ。