「撮影が行われたのは'14年のことですが、朝丘さんはセリフを覚えるのに苦労されていました。当時、私たちは朝丘さんのご病気のことを知らなかったので、期待して難しいセリフを用意してしまったんです……」
4月27日、アルツハイマー型認知症のため亡くなった朝丘雪路さん。遺作となった映画『プラシーボ』の監督・遠藤一平氏は当時の彼女の様子をこう振り返る。
「あのころから、自分が置かれている状況や周りの人のことを認識できていない様子でした。でも、カメラが回ると完璧な演技でアドリブまで入れてしまうんです。その様子がマンガみたいだったので、みんなビックリしていましたね」(遠藤氏)
朝丘さんは、'52年に宝塚歌劇団に入団。その後、ドラマ、映画、バラエティー番組など、幅広い分野で活躍した。
私生活では、'73年に津川雅彦と結婚し、翌年に長女の真由子を出産した。
周囲が驚く“天然サービス”
「彼女は生粋のお嬢さまでした。自分で傘を差したこともなければ、自動販売機も使えません。でも、その育ちのよさと天然のキャラクターがかえって彼女の魅力となっていました」(芸能プロ関係者)
都内で飲食店を経営するAさんは、生前のこんなエピソードを教えてくれた。
「今から20年ほど前、朝丘さんが出演する番組に私が料理人として呼ばれたことがあったんです。彼女は収録に車でやってきて、私が挨拶すると、私の手をぎゅっと握って何かを渡しました。
見るとご祝儀袋で、中には1万円札が入っていたんです。“これで運転手に弁当を作ってくれませんか?”。お弁当には、おにぎりとサラダ、牛ヒレ肉にあわびと鯛などを入れましたよ」